優しい声色で名前を呼べば彼女はゆるゆると髪をなびかせながらこちらを見た。死んだような目、とよく言うけれど彼女の目は死んでいるのにどこか生をちらつかせる、やっぱり中途半端な色をしていた。目の前にいる僕さえも映さない瞳には散っていくピンクの花弁が反映している。僕と同じようにゆっくりとした動作で口を開こうとした彼女ははたと途中で止まった。何事かと後ろを振り向けばちょうどめだかちゃんと善吉ちゃんが仲睦まじく帰ってきているところだった。幼なじみ、だなんて僕のほうが先に出会ってるのになあ、少し妬ける。
ゆらりと桜の花びらが消えた瞳にはもう何も映っていなかった。彼女たちを眺めているのに映しているのは無の世界。それが彼女の特徴なんだけれど、やっぱりそういうのってズルいと思う。ふいに止まっていた口が再始動して僕の名前を呼んだ。生温い春にぴったりの錆びた鈴がなるような枯れた声。愛おしいその声が紡ぐのはいつだって僕への愛なんかじゃあなくて神様への信仰だ。彼女はいつからか有神論者になっていたらしい。気づくといつも空ばかり見上げている。
「球磨川、寂しいの?」
すっと指をさしたほうには校舎に入っていくめだかちゃんたち。括弧つけた言葉と笑顔でいつも通りにどうして、と返すと彼女は急に人間味のおびた表情をする。いきなり、なんだ。顔を歪ませるのは僕のほうだった。
「だって球磨川は黒神が好きでしょう。好きな女が自分以外と仲良くするのを妬んだり悲しく思ったりするのが人間じゃないの。」
「『さも人間を知ったような口をきくのはよくないと思うぜ。』」
口をついて出た言葉はずいぶんとキツイ口調で彼女に届いた。それでも顔色ひとつ変えないで凛としている姿は、妬ましいくらいだ。実際に僕が好きなのは彼女なんかじゃなくてめだかちゃんのはずだった。ずっとずっと昔から、僕は案外一途らしい。まあ初恋は人吉先生だけれど。それなのに最近ではめだかちゃんが他の誰と話していてもチクりともしない。笑おうが泣こうがハグしようがキスしようが僕には関係ないと顔をそむけている。代わりに視界に映るのは彼女だった。
黒神めだかが人類全てを愛でているというなら彼女はその逆だろう。人間という部類すべてを忌み嫌い、隔てている。枠の外に投げ出した人間界をいつも遠くから眺めている彼女はどちらかと言えば神に近い存在だ。ああだから神様を信じるようになったのか。唯一自分を理解してくれるような近い存在に惹かれるというのは人間誰しも抱く当然の好意だ。なんだ、結局彼女も人間だった。ふんわりと生温い風が揺らす彼女の髪を一束手に取る。さらさらとした柔らかい毛は逃げるように指の間をすり抜けていった。
めだかちゃんたちをさしていた指がおろされ、今度は僕のほうに伸びてきた。ビックリして反射的に半歩ほど後退すると彼女はキョトンとした様子で、また生きた人間の表情を浮かべる。生温い春は彼女さえも変えてしまうのか。すっと伸ばされた白く綺麗な小さい手の平は優しく僕の輪郭をなぞった。体温すらも中途半端だ。
「神様は言ってたわ。寂しいときは人肌が恋しくなるって。」
「『悪いね、あいにく僕は無神論者なんだ。』」
憂えた顔が少しだけ僕を見た。もしかしたらそれが彼女の本心だったのかもしれないと思うとどうにもやるせない。ふわりっと遅い春一番のような強風が吹いて僕たちを乱雑に撫でる。一瞬だけ逸らしてからもう一度彼女に視点を合わせるとそのときにはもういつもの表情と呼べない顔をしていた。相も変わらず反映しているのは吹き荒れた風でここぞとばかりに舞っている桃色の花弁。君の言う通りかもしれないね、とどれに対して返した言葉なのか自分でもわからない返事をする。生温い小さな手を握った僕は、やっぱりいつもの笑顔でとぼけることしかできなかった。
愛なんて要らない //「13番目の憂鬱」様へ提出