痕跡

鬼灯の私室に完備されている浴室で、ヒサナは湯船を見て苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
一般の温度より少し高めに焚かれたそれは、ヒサナの為に鬼灯が用意してくれたもの。
あれから数日寝込んでいた身であり、さっぱりしたいのは山々だが、戸口に手を添えたまま波紋ひとつない水面を凝視して暫く固まっていた。

「ヒサナ…ってまだ入ってなかったんですか」

洗面所の扉を開けてきたのは他でもないこの部屋の主で、ヒサナは黒い道服姿のまま鬼灯に目をやった。

「入らないと…だめです?」
「身を清めたいと言ったのはヒサナでしょう」

持ってきてくれたのだろう、手にしていたバスタオルを脱衣籠に入れた鬼灯がヒサナの背後から浴室を覗く。
ヒサナも彼の視線を追うように湯船を見た。
もわもわと浴室中に充満させる湯気を上げる湯は、とても温かそうに見える。
しかしヒサナは胸元で拳を握ると、こてんと首をかしげた。

「なんか、気乗りしないというか?」

何だろうかこの気持ちは。
温かい物は好きだし、薦められた時は風呂も魅力的だった。
しかしいざそれを前にして、ヒサナはなんとも言えない感情を抱いていた。

「日本人と言えば風呂でしょう。シャワーだけでは湯冷めしますし、疲れまではとれませんよヒサナ」
「んー…」

体温の高いヒサナの為に、ぬるくないよう熱く沸かした。
女性ならば風呂は好みそうだがと思案しようとして、その前に鬼灯はすぐに合点がいったようで掌を打った。

「ヒサナ、湯浴みは初めてですか」

現化してから身だしなみも何も、還ってしまえば仕切り直されるので気遣った事もなければ気にしたこともなかった。
しかし、還れなくなったのであればそうもいかない。
ヒサナも気付いたようで、ひきつった笑みを浮かべた。

「確かに、そうですね。だから入りたくないんでしょうか」
「猫ですか貴女」
「猫?」
「猫は水を嫌うんですよ。好むものもいるようですが」

へぇと適当に相槌を打ってヒサナは湯船を凝視する。
このもやもやとした不愉快さは、確かに警戒しているような不信感にも似ている。
成程、自分は未知の領域に立ち入りたくないのかと納得した。

「鬼火ですからね。私は本能的に水が嫌なのかもしれません」
「そういえば初めて中庭にお連れした時、金魚草は面白そうに見ていましたが水やりは興味無さそうに遠巻きにしていましたよね」
「…あれを興味有りそうに見る人がいるんですかね」

庭一面に揺れる金魚草は圧巻だったが。
それに水をやる光景は、確かになんとなく距離を置いてしまった。

「シャワーだけにします?」
「シャワーもあまり気乗りしないと言いますか…」
「鬼火は水で消せるものでも無いでしょう」
「それはそうですけど…」
「大丈夫ですよ、貴女の変化は完璧です。溶けやしませんし、何せ性交までできるのですか」
「わーっ!!」

反射的に振りかぶった片腕は、瞬時に鬼灯に抑えられた。
何て事を口にするのかと、ヒサナは顔を真っ赤にさせて鬼灯を睨み付けた。

「いつもよくそんな恥ずかし気も無く口にできますね…っ!」
「今更何を恥ずかしがると言うんですか。口にせずとも雄は皆内に抱いてますよ。正直で何が悪い」
「正直とか素直とか、そう言うことじゃ無くてですね!」

言われる相手の立場になってみろと告げたいが、きっと『私は大丈夫ですから』だのなんだのと相手にされそうもない。
ヒサナは諦めて大きなため息をつくと、もう一度浴槽に目をやった。

「入らなきゃ、ダメですかね…」
「あ、入れてさしあげましょうか」
「なんですかその『名案』みたいなキラッキラした顔!絶対嫌です!」

閃いた様子の鬼灯に見つめられ、ヒサナは全力で首を振る。
だれが身を任せられるものかと、掴まれたままの腕を振りほどこうともう一方の手をかけたが、叶わないどころかその手も簡単に捕らわれると片手で纏められ、頭上で戸口の縁に押し付けられてしまった。

「まぁそうおっしゃらずに。嫌がる猫を湯浴みさせるのは得意ですよ」

猫じゃない。
相手にしてるのは猫じゃない。
至近距離の鬼灯に無理だなんだと喚くが、腕も使えないヒサナの抵抗など鬼灯には可愛い部類の物に過ぎず、益々顔を寄せられた。

「初めてで勝手もわからないでしょう?」
「わかりますわかります!頭洗って体洗って!温まって、おしまい!」
「今回は貴女しか使いませんから、先に体を温めてから洗いなさい。…その前に私が入れないと貴女入らないんじゃないですか?」
「わかりました先に入ります!入れますから!」
「言いましたね?」

予想だにしなかった鬼灯の返答に、ヒサナが呆けた様子で彼を見やれば、首筋に顔を寄せられ口付けられた。
こそばゆい感覚に小さな悲鳴を上げて首を竦めるが、鬼灯はあっさりと両手を解放して身を離した。
「は…?」
「病み上がりですから長風呂はしないように。ヒサナの洗った着物は一番上のそこの棚に。タオルはこれを使いなさい」
「は、い」

あれこれと説明を受けて呆気にとられていると、その様子に気付いた鬼灯が手を止めてヒサナに視線を戻した。

「何ですか、もしかして一緒に入るの期待してました?」
「っ!してません!!」

ゴウッと鬼火を身から溢れさせ、突然の事に驚いた鬼灯をドンと押せば珍しく重心を崩した彼を押し退ける事ができた。
そのまま洗面所から押し出せたのは、鬼灯の自立もあるだろうが、勢いよくドアを閉めて追い出すことに成功した。

「鬼火の無駄遣い」
「無駄じゃないです正に使い時でした!」
「本当に大丈夫ですか?」
「全っ然大丈夫です!」
「否定と肯定が混雑してますよ」
「うるさい!」

扉越しで会話をしながら、勢いで帯をとく。
道服と丈を合わせていた帯もとき、襦袢を脱ぎ捨てると浴室に飛び込んでそのドアも閉ざした。
鬼灯の声がまだ小さく聞こえるが聞こえないふり。
勢いでここまで進めたが、落ち着いて改めて目の前の浴槽を認識するも、やはりどうも気乗りしなかった。

「何が、怖いんだか」

気乗りしないと言うよりは不信感。
不信感と言うよりは、確かに感じる恐怖心。
しかし啖呵を切った手前、入らないわけにはいかない。
入らなければ何をされるかわからないどころか、逆に目に見えてしまっている。
ヒサナは恐る恐る湯船に近づき、膝をついてそっと指先で水面に触れた。
水面が揺れるのは、指が静寂を乱しただけではなく、ヒサナの手がかすかに震えているのもあるだろう。
暫くするとじんわりと指先から伝わる熱さに、ぞわっとした感覚が背筋をかけた。

「…あったかい」

手首まで沈めてみる。
体温や火とはまた違った温もりに、ヒサナはほうとため息をついた。
冷たくない。
それだけでこうも安堵するものかと肘まで浸かった所で、湯から腕を引き上げた。
ぽたりと滴る水滴を数滴見送って立ち上がったヒサナは、次に足先をちょんと水面につけそろそろと沈めていく。
片足が水底につくと、もう一方も同じように。
息を止め、意を決して膝を折り肩まで浸かると、じわっと浸透するような温度に身を震わせた。

「うはー…っ何これ温かい…!」

ぎゅうと歓喜に震え身を縮める。
思いもよらなかった幸福感に、ヒサナは湯の中の手のひらを見つめた。

「冷たいわけないじゃない…お湯なんだから」

何故冷たいと懸念したのか。
自分の行いに首をかしげるが、答えは出ない。
鬼火だから。
猫の水嫌いが説明できないように、鬼火もきっとそうなんだろう。
そんなことを考えながら、ヒサナはゆったりと足を伸ばした。





これをさっぱりしたというのだろう。
途中鬼灯の『気遣い』を何度丁重にお断りしたかわからないが、ヒサナは初めての入浴後に体を火照らせていた。
こんなに気持ちのいいものなら、今度大浴場の方にも行ってみて良いか鬼灯様に聞いてみよう。
ヒサナは上機嫌で久しぶりに自身の着物に袖を通す。
お香さん達のような立派な作りの着物ではなく普段着用の帯も細い簡易な着物だが、着なれているので一番しっくりきた。

「ほら、入れたじゃない」

鬼灯に一人では入れないと言われた事に対し、ヒサナはどうだと得意気に笑う。
しかしふと、あのやり取りでの妙に引き際の良かった鬼灯を思い出す。
まるでヒサナに自分で決断させるよう仕向けたようなやり取り。
鬼灯様ならありそうだと小さく笑いながら、問答の最中首筋に口付けられた事も思い出すと、表情を一転させ瞬く間にヒサナは赤面した。

「なん…なんで首にキスしたがるんだかわからない…っ」

入るときは目にした浴槽に釘付けで気にも止めなかったが、洗面台に添えつけられていた鏡で口付けられた箇所をなぞりながら首筋を確認する。

途端、ヒサナは鏡を見て大きな悲鳴を上げた。

「どうしました!」

ヒサナの悲鳴で血相変えて飛び込んできたのは鬼灯で、洗面所に入るとヒサナは洗面台を背にしゃがみこんでいた。
何事かと鬼灯がヒサナと名を呼びながら手をさしのべれば、顔を上げたヒサナにきつく睨み付けられた。

「何ですか。心配して来たのに」
「なん…な…なん!」
「難?」

口をぱくぱくと動かすヒサナだったが、なかなか言葉を続けない。
怪訝に思いつつもヒサナの言葉を待ったが、彼女が手のひらで首筋を押さえている事に気付く。
そしてその手の下にある物と、ヒサナがしゃがみ込んでいる位置を結びつけて鬼灯は合点がいった。
しかし鬼灯が指摘するよりも早く、ヒサナがやっとの事で言葉を吐き出した。

「なんって痕残してくれてるんですか!」
「嬉しいですか?」
「逆です!」

わなわなと立ち上がったヒサナは息を飲んで背後の鏡へと振り返ると、そっと首筋にあてていた手を退ける。
そこには、犬歯の部分が妙にくっきりと残った歯並びの良い歯形が刻まれていた。

「こん…っ!こんながぶっと噛まれてるなんて…!」
「何か問題が?」
「大有り過ぎてむしろ問題無いって言える鬼灯様が問題ですよ!」

鏡越しに背後から此方を伺う鬼灯を睨む。
どうするんだこんなくっきりと歯形なんて残して。
指先で歯列をなぞるが、見た目通りざらざらとしている。
やはりかさぶたになっていると、ヒサナは落胆した。

「これ…着物きても見えますよね」
「見えてましたよ」
「教えて下さいよ!ってあああだから桃太郎さん早急に帰ったんですかね…!」

寝込んだ初日に、桃太郎がヒサナに薬を届けにきた。
しかしお礼もそこそこに、落ち着かない様子の桃太郎はあまり話もせずに帰ってしまった。
鬼灯が私室まで人を通すとは珍しいと対応したが、まさかと後ろに立ちはだかる鬼を見上げた。

「わざと通しましたね…」
「見せたくなる物ってありますよね」
「わかりません!」

どうしてくれる。
ヒサナは困った様に歯形を凝視していたが、不意になぞっていた手が止まる。
言葉も出なかったのだ。
よくよく襦袢の胸元を開き見てみれば、赤い痕が点々と至る所に刻まれていた。

「は…何これ…っ」
「鬱血痕」
「見ればわかります!」

虫に喰われたなんて可愛いものではない。
鬼に喰われたのだ。程度が違う。
最早どうしてよいかわからず、鏡に身を乗り出して無意味な確認を続けるしかなかった。

「どう…どうしたら!」
「ちなみにお香さん、今日の午後ならお時間空いてるそうですよ」
「え?」
「買い物」

次から次へと突きつけられる現実に追い付けない。
つまりこの姿で、いきなり今日の午後知人に会わなければならないらしい。

「はあああ?!なんで急に!」
「急も何も、数日前から相談済みですよ」
「隠れ…隠せますかねこれっ」
「隠せても何があったかバレバレですけど」
「馬鹿!鬼!悪魔!」
「馬鹿でも悪魔でもありません。鬼はその通りです。それより先程からいい眺めですよヒサナ」

言われて改めて見てみれば、はだけた胸元を晒し、襦袢はあってもまだ着物の帯まではしめていないはしたない格好をしていた。
途方に暮れつつも、ヒサナは前身頃を引っ付かみ、目の前の楽しそうな鬼神を威嚇するしかなかった。

20150304

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