手を綱ぐ

蛇に見込まれた蛙とは、今の事を言うのだろう。
通りの向こう側でこちらを凝視している集団を認識した瞬間、ヒサナの身が強張った。
指先すら動かす事もできず、鬼灯の手を振りほどく事すら忘れて固まっていた。

否、その状態が当てはまるのはヒサナだけではない。

彼女達にも同じく動きは見られなかった。
ヒサナからは見えないが、鬼灯の眼光がいつにも増して鋭くなっているだろう事は、ドロドロと色濃くなった彼の怨気を感じ取れば手に取るようにわかった。

再びこの女達と見える時、変わらず対応できるだろうとどこかで再会する不安にヒサナも思案していたが、やっとの思いで一歩僅かに足を下げた体は正直だ。

怖い。

彼女達にどう思われているのか。
何をされるのか。
不安にかられ、今からでも逃げだしたいという思考にようやっと辿り着く。
しかしそれは鬼灯に掴まれたままの右腕に痛みが走った事で我に返った。
グッと握り直されたかと思うと、その腕を引いたまま鬼灯は大股に通りを突っ切った。
ヒサナは僅かに身を引き抵抗する事で拒否を示すが、鬼灯は有無を言わさず爪をたてるだけで、呻くヒサナを引きずって向かいの通り、彼女等の前へと迫り寄った。

「初めまして、閻魔大王第一補佐官の鬼神鬼灯です」

鬼灯の長身は、時には武器になる。
あの高さから150pそこらの人が冷ややかに見下ろされれば、かなり威圧感が増す事だろう。

「鬼灯様、お知り合いではなかったのですか」
「知りもしませんよ、この人達の事等」

鬼灯はヒサナを一瞥した後、獄卒女達を見据える。

その背にヒサナを庇ったまま、鬼灯は汚い物でも見る様に視線を寄越した。

「うちのヒサナが先日お世話になったそうで。言いたい事がおありでしたら直接私に言って下さい」

さぁどうぞと言わんばかりに距離を詰める鬼灯に女達はたじろぐが、後ろの独りが『告げ口したの?サイッテー…』と口にしたのを鬼灯は聞き逃さなかった。

「ヒサナの事をよく知りもしないで、どの口が物を言いますか…」

ゾアッと、辺りを重く息苦しい怨気が取り巻いた。
様変わりした空気に、女達もキョロキョロと辺りを見回した。

「ヒサナに懇願されなければ、とっくに手を下してますよ」
「だっ!駄目です鬼灯様!」

慌てて自分の腕を掴んでいる鬼灯の手にもう一方の手を添えるが、鬼灯はヒサナの腕を掴む手に込める力を増しただけでヒサナの苦痛が増えただけだった。

「だから、側を離れないで下さいよと言ったではありませんか」
「意味がわかりません。こんな状態の鬼灯様を置いて何処其処へ等行けと言われても行けませんよ!」

痛みに耐えながら鬼灯の意識をこちらへ向けようと必死に腕を引くが、鬼の力に敵う筈もなく無駄な抵抗へと成り下がる。
鬼灯はヒサナの抵抗等気にも止めぬまま、肩に担いでいた金棒をドンと地にたてたので、それに結わえてあった風呂敷包みが音も無くひび割れた地にずり落ちた。

「言いたい事が無い様でしたら、私から」

金棒が動いた事で完全に相手も気後れしている。
今の状態の鬼灯に、一体誰が何を言えるというのか。
物理的報復があっては第一補佐官の立場も危ぶまれるのではないかとヒサナは鬼灯にしがみついた。

「鬼灯様やめてください…!」
「何故、本日はこの6人で衆合地獄へお使いを頼まれたか、疑問に思った事でしょう」

ヒサナの声になど耳を傾けもしないで続ける鬼灯。
どうしようかと涙ぐみそうになりながらヒサナは彼女たちに逃げてと叫ぶが、その声は鬼灯に捻りあげられた腕に呻いた事で最後まで言葉を紡げなかった。

「私がね、貴女達の主任に頼んだんですよ。彼女達が第十弐倉庫の鍵を紛失したのをお咎め無しで黙っておくから、簡単な使いに出させてほしいと。先程行かれた部署へは、必ずここを通りますからね」

鍵番の獄卒から聞けば、倉庫群の錠前の鍵は特殊な作りなので紛失届けを出されて手がかかると愚痴を聞かされながら、直ぐ様最後の利用者記録を閲覧させてくれたと鬼灯は語る。
ヒサナも思い返してみれば、自分が還っている間、鬼灯がそんな作業をしている記憶がうっすら残っていた。

「それの名前が該当する部署と、写真のデータで周辺の交友関係を照らし合わせて虱潰しに探せば案外簡単に出てきましたよ。監禁するなら、一切の痕跡も残さずにしましょうよ」

私なら出来ますよと言わんばかりの物言いに、女達の顔面はこれ以上無いほどに歪んでいた。

「ですが今後、貴女達が変わらない日常を送れるのはヒサナが私を止めたからですよ。彼女からの擁護がなければ、転職していらしたかもしれませんねぇ…」
「鬼灯様っ!」
「やっとね、心を開いてきてくれたんですよ」

自分が止めた事は彼女達が知る必要はない。もうやめて欲しいと口を挟もうとしたが、鬼灯の口をついた言葉にヒサナは顔をあげた。
話題が変わったからだ。

「寒いだの役目だのなんだの理由をつけて私の前から去ろうとする彼女を側に置くのに、どれだけ苦労したと思ってるんですか。あなた達にはわからないでしょうけど。私がどれ程ヒサナを大切に思ってるかご存じないでしょうね。ぽっと出がと、お思いなのでしょう。とても浅はかな了見だと思います。よく知りもしないで…」

若干キレているような物言いは、きっと目の前の獄卒女だけに向けた物ではなく、思い出した事でヒサナにも向けられているだろう事はなんとなくわかった。

「誰が決めたのでもありません。私が、ヒサナがいいんです。ヒサナ以外は考えたくありません」

ごりっと地を擦った金棒を軽々と片手で目の前に突きだし、その先で女達を指す。

「この写真のデータをばらまく事も出来ます。何が写っているか知りたければ、今すぐ撮影した記者に返して記事にして見せましょうか。主任に報告する事も出来ます。誰のお陰で今まで通りの生活が送れているのか、よく考えてごらんなさい。私は仏ではありませんので、次すらありませんよ」







「嘘つき…!」
「貴女、飲みに行った時最初しかいなかったんですから、相応でしょう」

彼女達を帰した後、衆合地獄の入り口まで戻ると、鬼灯は大きく息をつきながら長椅子に腰かけた。

「手を出さないで欲しいと言いました」
「ですから、出してないじゃないですか。根回ししただけです」
「そんな屁理屈…っ」
「…貴女との約束を守ったのに、嘘つき呼ばわりされた挙げ句怒られるのは心外ですね」

ギッと睨まれ、気分を害した事は言われるまでもなく理解できた。
しかしヒサナだってあれだけ頼んだのにこの結果なのだから、何も言わない訳にはいかない。

「…どういう事ですか」
「私はね、自分の物に手を出されて、はいそうですかなんて黙っちゃいられませんよ。殴るなり刑場へ堕とすなり色々考えましたが、かなり妥協したと、思うのですがねぇ」

確かに手は出していない。
威嚇はしたが実際危害も何も加えていないし、彼女達の社会的地位が変わるわけでもない。
鬼灯なりに、ヒサナの為に譲歩してくれたのだろう。かなり。

「…我慢、してくださったんですか」
「その手を離していたら、迷わず金棒を降り下ろしてましたよ」

スッと腕をもたげ、鬼灯が指差すのはヒサナがおさえている彼女の片腕。
ヒサナも視線を落とし、押さえていた箇所に目をやればそこは赤黒く鬱血していた。
その形は、紛れもなく掌であり、そこを先程まで掴んでいたのは鬼灯に他ならない。
鬱血跡は、どれだけの力が込められて握り絞められていたかを物語っていた。

「ヒサナが側に居る認識がなかったら、危なかったと思いますよ。貴女を連れて来て正解でした」

独りで赴いていたら別の意味で記事になっていたかもしれないと、鬼灯は金棒に添えた手の上に顎をつく。
謂わば自分は精神安定剤だったのかと、ヒサナは未だ痛む鬱血箇所を擦った。

顎を添えたまま暫くヒサナを凝視していた鬼灯だったが、もそもそと下を向き今度は額を預けて再びはぁと大きく息を吐いて項垂れる様を見せるので、ヒサナは首をかしげて鬼灯の前に歩みよった。

「誉めてくれないんですか」
「は?」

あれだけ怨気も増加させて、負担を伴い体調でも優れないのかと心配して声をかけようとすれば、近付いたヒサナの気配にぐるりと首を捻った鬼灯と目があった。

「何も、しませんでしたよ」

若干拗ねているような声音に、ぽかんと口が半開きになる。
要するに、我慢したのだから何かしらしてくれてもいいんじゃないですかね、鬼灯の考えはそんな所だろう。

確かに普段の彼の行いや白澤への報復を見れば、蚊が飛ぶに等しいような対処であった。
本当にヒサナの為を思って、赤子の手も捻らない様にはしてくれたのだろう。
どうせなら何もしてほしくもなかったが、今後のヒサナの事を考えての鬼灯の牽制球だ。
一概に鬼灯を責めるのも申し訳ない。

だからと言ってどうしてやればいい。

そんな事を思案しながら鬼灯を見つめるが、鬼灯は長椅子に腰かけたまま背を丸めて金棒に頬杖をついて拗ねているだけ。
ヒサナの腹部辺りに、鬼灯のまあるい頭。
整った頭部に真っ直ぐの角。
普段は見上げる立場で、目にすることのない頭角、それがヒサナの丁度良い高さに見てとれる。

なんだ、頭でも撫でてやれば良いのか。

誉めろと言われたのだから、言われてはないが同じ事だと幼子をあやすように手のひらを軽く鬼灯の頭に添えると髪の流れに構わずさらさらと滑らせた。

「…なんですか」
「いえ、誉めろと仰いましたので……私の為に、ありがとうございました」

散々文句は言ったが、自分のためにしてくれた事、嬉しくない訳がない。
若干頬を染めながら口ごもり気味に感謝の意を述べたが、鬼灯からは何の反応もない。

「鬼灯様?」
「いえ、これは…別に」

口許に手の平をあて、肘をつきながら彼方へ視線を反らす鬼灯は、満更でもない様でうっすら目を細めて嬉しそうにするものだから、思わず撫でる手が止まった。
不意打ちにこっちが恥ずかしくなってきたので、声にならない叫びを心の中で上げながら、紛らわす為にヒサナはその頭をがしがしと撫で付けた。

「それじゃムツゴロウさんにはなれませんよヒサナ」
「わっ!」

急に撫でていた手を掴まれ手を引かれたので、慌てて鬼灯の肩に手をついて堪えるが腰を抱き止められた。
切れ長の、朱の隈取りがひかれた彼の目とかち合う。
暫しの沈黙の後、鬼灯の手がヒサナの頬に添えられた。
空気が読めずとも、この雰囲気くらいはわかる。

「キスできないのが残念です」
「し…してるじゃないですかいつも!」

額を合わせて今正にその雰囲気だったのに鬼灯が小さくため息を漏らすので、なんて事を言うのかと金魚草のように口をぱくぱくさせて慌てるが、鬼灯はヒサナの柔らかな唇にふにっと人差し指を添えると首をかしげた。

「できないじゃないですか。深いのとか」

その仕草がとても艶やかなので、耳まで真っ赤にしたヒサナは、したいですねぇなんて宣う鬼灯へ適当に相槌を返すだけで精一杯だった。
こちらも処理能力が限界である。

「還してくれるんですか」
「還したくはありませんが、あまりにも愛おしくなりましたので今私がしたいんです」

若干顎を引き、はにかみ微笑んだヒサナに鬼灯はそっと唇を寄せ、重ねた。

「…?」
「ん…ふ…ぅっ?」
「…は」
「ちょっ…ほ…んぅ…っ」
「はぁ…ヒサナ?」
「なっ…はっ!何!してくれるんですか!」

突然の深い口づけに驚いて唇を拭いながら身を引けば、鬼灯が若干ムッとした顔をしたがすぐに眉間の皺は緩み驚いた様な顔に変わった。

「貴女、何かしました?」
「何かって、何をですかっ!鬼灯様が何するんですか!」
「いえ、自覚は無いようですね…だとしたら一体…」
「だから、何ですか」

したいと言った側から口付けを深められて、何の言い様だと慌てふためいてみたが、当の鬼灯は落ち着き払っている。
というよりは、何か怪訝そうな顔をしながらまじまじとヒサナを見つめていた。

「何故還らないんですか、ヒサナ」

20141108

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