彼女に触れるのは
にゃー
「…なに、コイツ」
名前のマンションのソファに腰掛けて、彼女がコーヒーを持ってくるのを待っていた明王の足に、なにやら衝撃。
ソファに深く腰掛けている為、ここからでは自分の足元が見えない。
前かがみになり、足元を覗き込んでみれば、其処には見知らぬ猫が1匹。
はて、彼女は猫を飼っていただろうか。
「(いや、多忙だから飼うわけねーよな…)」
そんな事をぼんやりと考えていると、ぽすん、と再び足に衝撃。
どうやら体当たりをしているのではなく、器用に前足でパンチをしてくる。
…猫パンチとでも言えばいいのだろうか。
別に痛くはないのだが、ぽすぽすと繰り返される其れを見ると、どうやら自分はこの猫に好かれていないようだ。
中学の頃の自分なら怒鳴っていただろうが、高校に入って性格も穏やかになった彼は、自分に繰り返される其れをぼんやりと眺めている。
ふと、後ろの方からくすくすと小さく笑う声が聞こえてきて、明王は後ろを振り返った。
「笑うなよ」
『ふふ、すまない』
そこには、両手にマグカップを持った名前の姿が。
片方を明王に渡してから、彼女は彼の隣に腰掛ける。
まるで其れを見計らったかのように猫は明王への猫パンチを止め、ソファに座った名前の膝の上に飛び乗る。
すとん、と美しいフォームで飛び乗った猫は其処で丸くなると少し身じろぎしたが、調度良い体勢になったのか、身じろぎをやめて首を下ろした。
こうして見るとまるで白饅頭だ、と明王は思ってしまった。
『…白饅頭か、なかなか酷いね』
「読心術止めろ。つーか猫なんて飼ってたかァ?」
このマンションはペットOKだが、あまり飼っている人間を見かけない。
其れは其れでありがたいのだ。
躾のされていない犬は騒がしくて敵わない。
名前は自分の膝の上で丸まっている猫を優しく撫でる。
『お隣さんだよ。たまにこうして預かるんだ』
「へぇ、預かるのか」
『躾もしっかりされてるから仕事の邪魔もしないんだ。とても良い子だよ』
「良い子、ねェ」
明王が、コーヒーのマグカップを持ったまま背中を曲げて猫の顔を覗きこむ。
それに気付いたのか、猫は片目だけを器用に開けて、オレンジ色の瞳で明王を鋭く見る。
まるで睨んでいるようだ…というか睨んでいるだろう。
「(一体何処が良い子なんだよ…)」
自分に対して何だかふてぶてしい態度をとり続ける猫に対し、思わず眉間にしわが寄る。
それならまだ良かったのだが。
フッ
「――〜〜っ!」
ピキッ、と青筋が走ったような気がする。
いや、走った。
猫は明王を鼻で笑うと、もぞ、と再び顔を自身の腕に埋めた。
彼は猫を覗き込むように曲げていた背中を戻し、顔を顰めたままマグカップの中のコーヒーを大きく一口。
「(落ち着け落ち着け落ち着け猫に鼻で笑われ…)」
フッ
「(…なんなんだこいつ!!)」
落ち着くためにコーヒーを飲んだというのに、フラッシュバックした猫の笑いに再び苛立つ。
そんな隣の変化に気付かないわけもなく。
マグカップを持ったまま明王の顔を覗きこんだ名前は、彼の名前を呼ぶ。
『明王?』
「…鼻で笑いやがった」
『え?』
いかにも不機嫌、と言わんばかりの表情の彼は、短くそう言った。
はて、一体どうしたのだろうか。
明王猫を覗き込む
↓
明王機嫌悪い「鼻で笑いやがった」
どうやら彼は猫に鼻で笑われてしまったらしい、という事を理解した名前は、哀れんだような瞳を彼に向ける。
まさか猫に鼻で笑われる人間が居るとは思わなかった。
『…おやまぁ』
「何処が良い子なんだよコイツ!?」
話が違ぇ!と明王は反論するが、名前はなんとも言えない。
先程彼に言ったように、この猫は本当に彼女の仕事の邪魔をせずに大人しくしているのだ。
逆に構ってくれるのだと分かると、一目散に擦り寄ってきてくれて本当に可愛いのだ。
これを良い子だと言わずしてなんと言うのだろう。
「…それって…」
じろ、と明王の鋭い視線が猫に降りかかる。
「にゃー、」と短く鳴いた猫は立ち上がると、前足を名前の胸の辺りに置き、大きく背伸びをする。
尻尾をゆらゆらと揺らしていると、これ見よがしに薄くざらついた舌で名前の頬を舐め始めたではないか。
人間とまた違って何だかくすぐったいような気がして、彼女は小さく笑いながら猫の頭を撫でる。
だが其れを黙っている隣の人間ではない。
彼は地を這うかのような低い声を出してきた。
「いー加減にしろ、よっ!」
「ニ゛ャッ!!?」
ゆらゆらと揺れていた尻尾をぎゅっと掴めば、猫は可愛らしい声から一変、野太い声を出した。
掴んだその手を直ぐに離せば、猫は一目散にリビングから退散していく。
果てしなく幼稚なそのやり取りを眺めていた名前は、呆れたような瞳で明王を見やる。
『…明王』
「折角来てるんだから猫にじゃなくて俺に構えっつの」
自身のマグカップをテーブルの上に置いて、名前の持っているものも取り上げて其れに隣に置く。
それからぎゅう、と名前に抱きつく明王。
いつものように軽いハグではなくて、ぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱きしめてくる。
ぐりぐりと肩口に頭を押し付けられれば、ふわふわとした彼の髪が首を掠めてくすぐったい。
今日は珍しく甘える日なのか、とくすりと笑った名前。
『随分大きな猫だね』
「るせー」
猫に対してされるがままだった名前も、明王の背中に腕を回す。
そして彼ほどではないが、力を込めた。
「もっと力強くしろよ」
『えー?』
「いーから」
ほんの少し顔を上げて名前のスカイブルーの瞳を射抜く深緑。
その瞳は明らかに拗ねていて。
小さく笑った名前は、明王が満足するように、更に腕に力を込める。
互いに強く抱き合っている為、2人の間の隙間は0に等しい。
『嫉妬した?』
「…した」
『猫相手に』
「……あ゛ー、黙ってろよ…」
くすくすと可笑しそうに笑い続ける名前に、それ以上強く言えない明王は、これでも喰らえと言わんばかりに身体に回す腕の力を強めた。
苦しいよ、と笑う彼女の言葉は聞こえぬふりをして。
これからもずっと僕だけでと願う