春は、いつの間にか去る 「ねぇ、ハル?」 瞼の上に薄い紫をぬった艶っぽい女の両手が僕の手を絡みつけ、ゆっくり体を寄り添わせる。 「なぁに?」 と僕はその女に、にこやかな笑顔を向けた。 「あなたは、春を誘う仕事の前は何してた人なの?」 と上目遣いで僕に問う。 その女は、たくさんの女の中の一人の女。 一晩くらい過ごすだけだから、もっとも僕は名前も知らないけど。 きっと、僕の過去を知って、他の女より一歩先にいきたいなんて思ってるのかな。 女って、馬鹿だね。 僕の過去を知ったからって、何かが変わるわけでもないし、僕の何かを知れた訳じゃないし。 でも、 僕は掴まれていない左手で煙管を吸いながら、昔に思いを馳せた。 ── 「ささ、お酒を」 僕はとっくりを手に、出された杯へと注ぐ。 そうすると、ゆらゆらと僕の長い袖は揺らめいた。 注ぐ相手は、格好からして高い官位の役人。 身に付けているものが無駄にきらびやかで、顔とあっていない。 特に、付けすぎている耳環は笑う度にジャラジャラと音を立て煩い。 「春華(シュンカ)、そろそろ」 僕の方に手を回し、卑下た顔を浮かべた。 なんて、気持ち悪い。 悪寒が触れられた肩から足の先まで走った。 けれど、仕方ない。 仕事なんだから、と言い聞かせて、 「えぇ」 と笑った。 「あーあ、折角の衣装が台無しだよ」 今日のは凄く綺麗で気に入ってたのになーと僕は自分の服を見下ろした。 胸から足元にかけて、赤黒い血が飛び散っている。 壁にも幾らか付いてしまった。 「やめてよねー」 僕の足元にあるものを軽く蹴る。 それは、ごろりごろりと真っ直ぐ転がって前を塞ぐ障害物に阻まれ止まった。 それは、大きく見開いた目を僕に向ける。 さっきまで一緒にいた役人の頭だった。 その行く先を止めたその頭の体は、びくっびくっと地に上げられた魚のように痙攣を繰り返し、頭のなくなった首からは止めどなく血を沸き立たせている。 「嫌になるよ、蛍」 流れ出すそれを見ながら、先程ののらりくらりな口調から一転した、低く鋭い口調で発した。 「なんだ、気付いてたのか」 後ろの柱の影から、出てくる女。 男物の武士の出で立ち。 後ろで一つにくくった長い髪がこちらへ歩く度に左右に揺れる。 僕の隣に来て、一度がらくたになったものをちらりと目にすると、 「やはり、お前は女装がよく似合うな」 と感慨深く頷いた。 ……………は。 死体を見た第一声がそれなわけ。 「……っふ、あははははっ」 唖然を通り過ぎて、笑えてきた。 血塗れの死体の横で、大笑い。 「な、何を笑うっ。私は冗談などではなく、本気で」 真っ赤になって、蛍は怒る。 いや、本気の方が笑えますって。 いよいよ、腹をおさえないといけなくなった。 確かに女物の衣装を纏い、顔には化粧を施し、長い桃色の髪は結って上げ、簪をさしたり装飾品を着けている僕は、そこらの女なんかに負けない自信はある。 しかし、それを口にする時が時だ。 やっと一通り笑い終え落ち着くと、蛍は隣に居なかった。 辺りを見回すと、酌をとった部屋の隅で拗ねたようにしゃがみこみ丸めた背中をこちらに見せている。 ゆっくりと近付いていく。 「蛍」 「主人のことを呼び捨てにするな」 優しく掛けた声を、背中を向けたまま、つんとした声で払い除けた。 もう一度、同じ言葉を繰り返す。 「蛍」 「だから」 パッと後ろを振り返った蛍に、 「ごめん、笑いすぎた」 と僕は素直に頭を下げた。 蛍は僕の行動に目を大きくさせていたが、きゅっと眉を険しくさせて口にした。 「許さん…………が、髪を触らせてくれるなら許す」 お好きなだけ、どうぞと僕は笑った。 「やはり、髪はふさふさなのだな」 簪を抜き、結ったのを下ろした髪を手で触る蛍。 口調が浮きだっているのは、気のせいではない。 僕の髪は真っ直ぐではなく、少しくせがあって、波打っている。 「こんなの、楽しいの?」 僕はお人形のように正座して、顔の見えない蛍に聞く。 「うむ。あ、櫛を見つけた。といてもよいか?」 いいよとだけ口にした。 きっと、否定は認められない気がする。 旋毛から毛先まで、すぅーと櫛が降りる。 くいっと最後に頭を引っ張られるのが気持ち良くて、思わず目を細めた。 「ハルよ」 ふいに、蛍が名を呼んだ。 その名は、蛍だけが呼ぶ。 春華は暗殺業の時の名。 本当の名は別にある。 僕以外誰も知らないから、蛍は僕の髪の色が桜色だからハルと呼ぶ。 春は嫌いなのに、蛍が言うとなかなか好きな響きだ。 「ん?」 見えるわけではないが、なんとなく目を上にやる。 「さっきのことは嘘だ」 「さっき?」 すぅーとまた櫛は下へと下りていく。 「ほら、あれだ。蛍と呼ぶなの」 やたらに蛍の声が大きく響く。 櫛は話している間も、上から下へと移動する。 「別にお前に蛍と呼ばれるのは嫌いじゃない」 そう口にして、ぷつりと蛍は黙ってしまった。 それでも櫛だけは動いていて。 その静かな時間がいつもと違ってくすぐったくて、でも、不思議と嫌ではなかった。 ――― 「昔は、よく笑ってたよ」 よく分からないと言った様子で、女は首を傾げた。 こんなところで浮かべる偽善の笑みではなく、心からの。 暗殺という穢れた職業の割には、蛍が毎回毎回何やらやらかして、笑っていた気がするな。 今思えば、それは蛍なりの…………いや、違う。 あれは、素だった。 絶対に、素だった。 一人でに笑い出した僕を見て、更に首を傾げる女。 まったく、恐るべき女だ、蛍は。 「そろそろ行くよ、神様にも怒られちゃうし」 女の手を振りほどき、服を着始める。 それにナツに追い付かれて、小言を言われるに違いない。 ナツって見かけによらず、小姑なんだよねー。 アキには、激甘なくせに。 あー、アキに会いたくなってきた。 いつもニコニコで可愛いし。 あ、 なんだか、笑ったアキと蛍が被った。 そういえば僕、アキと蛍以外女の名前覚えたことないなー。 まぁ、いいけど。 ベッドの上で唖然としたままの女を放って置いて、僕はまた春を運びに行く。 春は、いつの間にか去る (言い換えれば、気紛れ) |