第十六章
虎落笛(もがりぶえ)
元治元年九月。 近藤と永倉が江戸に向け出発する日がやってきた。
旅支度を整え門の前で別れを告げる二人を、幹部達は送る。 向かう場所が江戸だということで、皆は格別の想いを抱いていた。 無論綾は江戸の出身ではなく、一度も足を踏み入れたことのない土地である。 それでも尊敬する師が旅に出ること、また大事な弟が住まう場所とだけあって、並々ならぬ感情があった。
「トシ、留守を頼む」 「ああ、こっちは何の心配もいらねぇから気を回さなくていいぜ。久しぶりの江戸だ。ゆっくりしてくれ」
力強く言い放った土方に、近藤は頷いた。 懐かしいものを見るようにその瞳は細められる。
「日野にも向かおうと思っている。おのぶさんにもご挨拶しておくな」 「息災でやっていると伝えてくれ」 「心得た」
笑顔で親友同士の短いやり取りを終え、近藤は今度は視線を沖田に移した。
「おミツさんに何かないか?」 「何も変わりはないと、お伝え下さい」 「そうか。頑張ってくれていると言っておこう」 「ありがとうございます」
近藤の褒め言葉に、沖田は素直に破顔した。 いつもは捻くれた言動が目立つ沖田だが、彼は近藤にだけは心を許している。 尊敬する師、という意味では綾も気持ちは同じだが、幼少の頃から傍にいた沖田にとって近藤は唯一無二である。 近藤と会話をしている時だけ、子供のような無邪気な顔をするから驚いてしまうのだ。
ひとしきり会話を終えた近藤は綾に目を向けると笑った。 瞳の奥は慈愛に満ちて優しい。 まるで部下というよりも実の娘に対する眼差しである。
「土産は何がいい?」
尋ねられて瞠目する。 土産など、そんな恐れ多い。 困惑した綾に、近藤は遠慮するなと言った。
「何でも良い。望むものを言うがいい」 「では一つ」 「うむ」
自分を真っすぐ見据える近藤の目を、綾も見つめた。 近藤に望むのはこればかりである。
「練りきりが欲しゅうございます」 「練りきり、とな?」
これには近藤ばかりでなく、周囲の全ての人間が困惑する。 練りきりとは京菓子の一つで、白餡に、蒸すか茹でた白玉粉や餅米の粉に、砂糖や水飴を加えて練った求肥と呼ばれる物、もしくはツクネイモを混ぜて練った生菓子である。 無論日持ちするものではないし、第一江戸ではなく京の名物だ。 顔を顰める近藤に、綾は笑顔を見せた。
「練りきり一ついただき、近藤先生と茶の湯を楽しみたいです」 「茶の湯、か」 「左様にて。近藤先生の別宅にある茶室に、私はまだ入らせていただいておりません。恐れ多くも、私に近藤先生の為に茶を点てさせていただきたいのです」
ようやく意図を察し、近藤は眉尻を下げた。
今から出立するという時に近藤の別宅で茶の湯をすることは出来ないし、綾自身それは解っているはずだ。 ということは、茶の湯の件は近藤が江戸から帰って、ということになる。 茶の湯の所望はすなわち、無事に江戸から戻ることを意味する。 しかも日持ちしない練りきりという点に、大した怪我もなくということも含まれていた。 土産というのは旅から戻り日を置かずして渡すものである。 練りきりを食べることが出来るほど早く茶の湯をさせて欲しい、という所に全てが凝縮されていた。
近藤は何度も頷き、手を伸ばすと綾の頭を乱暴に撫でた。
「その願い、承った」 「ありがとうございます」
頭を下げ、綾は頬を緩ませた。
近藤と永倉は皆を見渡し、行って参るという言葉と共に門を出る。 綾は二人の姿が見えなくなるまで、見送り続けた。
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