五月雨 | ナノ









第十五章

芽生え




元治元年夏。
綾の肩もすっかり治り、また日常が戻ってきた。


本日は朝から幹部会があるため、綾は一人中庭で稽古をしていた。
木刀を何度も何度も突いては引く。
斎藤に加え、沖田の指導が入って日に日に鍛錬は厳しくなっていたが、綾は遣り甲斐を感じていた。
一時は刀を持つことが出来ないと思った身である。あの時のことを考えれば、こうして鍛錬出来るのは幸せなことだ。
綾は愚痴一つ吐くことなくこなした。


それだけに山南のことは案じられた。
山南は徐々に部屋に籠る時間が増しており、今では屯所内で姿を見かけることすら稀である。
完治した綾と違い、山南は刀を握ることが出来ない。
左手にほとんど力が入らないのだという。
誰も口にはしないが、剣客としての山南敬助を見ることはもう叶わないのは、周知の事実だった。


綾は山南のことを他人事に思えない。
剣客として生きること叶わないのは、あまりにも辛い事実だ。
その苦しみは立場に立たねば想像も出来ない。
だというのに、何と励ませば良いのか解らない自分に苛立っていた。


「綾」


考え事をしていたため反応は遅れ、一拍置いて綾は振り返った。
声を掛けたのは平助だった。
どうやら会議が終わったらしく、ぞろぞろと原田や斎藤など他の幹部達も部屋から出てくる。
平助は手招きをし、綾を呼んだ。


「どうしたの?何か決まった?」
「うん。江戸に行くことになった」
「は?」
「江戸に行って隊士を募る役を、俺が任されたんだ」


平助は朗らかに笑った。


池田屋の一件以来、新選組は世間から注目を浴びるようになった。
最近では毎日のように入隊試験が行われている。
各地から腕自慢の浪人達が新選組に入って名を上げようと、躍起になっている。


そこでこれを機に江戸でも隊士を集めることにしたのだ。
現在新選組では局長の近藤を始め、江戸出身者が幹部の役についている。
そうなるとどうしても自分の故郷の人間が欲しくなるのは、道理というものだった。


「でも、なんで平助?」


綾は首を傾げる。
隊士募集には後ほど近藤も行くらしいが、その先導に選ばれたのが平助だというのは少々意外だった。
伝手の多さは圧倒的に永倉だろうし、同い年でも旅に慣れている斎藤がいる。近藤の側近という意味では沖田だろう。
それを綾が素直に言えば、平助は苦笑した。


「今回はもう一つ役目があるから」
「役目?」
「伊東さんを勧誘しに行くんだ」
「伊東さん?」


初めて聞いた名前だと、綾は顔を顰める。
記憶を掘り起こしてもそのような人は覚えがない。
それは表情に出ていたのか、平助は幹部だけが知らされていたからと言った。


「伊東大蔵先生っていって、江戸の伊東道場の道場主だよ」
「道場主?…ああ、もしかして」
「そう。北辰一刀流」


それでなのか。
綾はようやく納得した。
北辰一刀流の道場主であれば、同門である平助が向かうのが一番良い手であるだろう。


「平助は伊東さんと面識あるの?」
「あるも何も、俺にとっては師匠筋に当たる人だから」


平助はそう言うと、頭を軽く掻いた。


「まぁ、俺はあんまり波長が合わなかったけどな」
「合わなかった?」
「なんていうか、伊東さんは学識が高い人で大層真面目な方だから」


伊東という人は、水戸学に傾倒しその影響で尊王攘夷の思想を持った人だという。
物腰柔らかで穏やかな性格であり、彼は多くの門下を抱える道場主だ。
人望の篤さと学識は有名で、近藤は是非とも伊東を新選組に引き入れたいのだ。
綾は複雑な気持ちになりながらその話を聞いた。


尊王攘夷というのは噛み砕いて云えば、帝の下で一丸となり異国を追い出そうという思想である。
その中身には徳川家による幕府政治に反する意がある。
長州方は尊王攘夷の思想が強いがために、度々佐幕寄りの新選組とぶつかっている。


綾は徳川家に愛着がある訳ではない。しかし現在の将軍は徳川家茂、紛れもない双子の弟である。
尊王攘夷派が徳川家を侮辱し、その延長で家茂を貶すのはあまり気持ちの良いものではなかった。
平助や山南が尊王攘夷であるが、二人は綾が家茂の姉であることを重々承知している。
表立って家茂公を批難することはなかった。


だが伊東は、その門下生達はどうだろうか。
尊王攘夷であれば、遠慮なく年若い徳川将軍のことを批判するだろう。
綾は既に徳川の人間ではないが、家茂の姉であることは変わりない。
それだけに手放しでは喜べなかった。


しかも近藤が佐幕攘夷派であるのは周知の事実である。
特に口にしないが、土方もどちらかといえば幕府に対して好意的だろう。
現行の上層部がそのような調子なのに、果たして対立思考である伊東が入隊し上手く立ちゆくのだろうか。
綾の心には一抹の不安が過った。
何事も起こらねば良いが。


「ま、そういう訳だから、俺の留守中隊は任せるぜ!」


重くなった空気を吹き飛ばすように、平助は明るく言う。
綾は慌てて、任せてと頷いた。


「久しぶりの江戸でしょ?ゆっくりするといいよ」
「土産買ってくるからさ、楽しみにしてろよ」
「期待せずに待ってる」
「いやいや、期待しろよ!」
「だって平助の見立てじゃん。無理な相談だなぁ」
「なんだと!あーあ、解ったよ!じゃあ後でビックリして腰抜かすなよ!」
「はいはい」


いつも通りの軽口を叩いて、二人で顔を見合わせる。
とにかく伊東という人が入隊してみなければ、何も解らないだろう。
綾は不安を忘れるように、声をあげて笑った。







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