第十三章
誉れ
元治元年六月七日。 池田屋事件から二日過ぎたこの日、朝から賑やかな音が聴こえていた。
綾は布団から身を起こした。随分眠っていたらしい。 左肩はいつの間にか手当てが施されたのか、綺麗な包帯に取り換えられている。 少し動かしてみると激痛が走り、顔を顰めた。
足音が聴こえたかと思えば、障子に人影が映る。 小柄なそれは部屋の前で立ち止まった。
「失礼します」
入ってきたのは千鶴だった。彼女は綾が半身を起しているのを見て瞠目したが、直ぐに顔を綻ばせる。 もしや心配させていたのだろうか。綾は瞬きを繰り返した。
「綾さん、お目覚めなんですね!良かった。痛いところはありますか?」 「肩が少し。あ、でもお腹が空いている方が一大事かな」 「ああ、そうですよね!では直ぐに何かお持ちします!」
千鶴はそう言うなり、弾けるように部屋を飛び出していった。 人影がいなくなればまた静寂が訪れる。元々近藤と土方の部屋に挟まれていることもあり、余程のことがなければ静まり返った場所なのだ。
綾は遠くの方で聴こえる祭の囃子に耳を傾けた。 昨年の祇園祭は染と共にお忍びで遊山に出かけた。 街の色が変わる祭の様子は、心が躍るようであった。 今年は呑気に祭に行く状況ではないな、と綾は苦笑する。
自身の肩はどうなってしまったのだろうか。 不意に不安が胸を支配していく。恐る恐る動かした肩は伝染するように痛んだ。 池田屋で手当てして貰った時、千鶴は神経は無事だと言った。が、彼女はあくまで医者ではない。もしもがあるだろう。 万が一剣を遣えなくなった場合、自分はどうなってしまうのだろうか。 新選組には、近藤の傍にはいられない。ただの厄介者だからだ。 背筋に悪寒が走った気がして、綾は顔を顰める。剣術を奪われることは尤も恐ろしかった。
「おにぎりと漬物をお持ちしました」
物想いに耽っているといつの間にか千鶴が戻っていた。 彼女の手には握り飯が三個載った皿と、小鉢がある。 ありがとう、と礼を言いつつ綾はそれを受け取った。 一日以上眠っていたせいか空腹感が襲う。ゆっくり手を伸ばし握り飯を頬張った。 塩気が程良く利いた握り飯は何故か懐かしい気持ちにさせる。 何度も咀嚼しながら味わった。
綾が食べ終わるまで千鶴は黙って傍に控えていた。 だがどこか物言いたげな雰囲気があることに綾は気付いていたので、食べ終わるなり彼女に向き合った。
「どうしたの、千鶴」 「え、あ、ええと…」
話を振られ千鶴はあからさまに動揺する。 どうやら自分では意識をしていなかったらしい。綾は思わず苦笑した。 素直な所は千鶴の利点だが、少々不安にもなる。こうも感情を出し過ぎては不便な部分もあるだろう。 笑みを零しつつ、綾は考えを巡らせた。
「ああ、私の性別のこと?」
ようやく思い当たる節に辿りついて言えば、千鶴は罰が悪そうに頷いた。 確かに池田屋で露見し、その後綾は屯所に帰るなり限界がきて倒れてしまった。 訳を問おうにも、本人が眠っているのではどうしようもなかったのだろう。 綾はそっと視線を手元の湯呑みに移した。
「そうだよ。私は女だ」 「そう、ですか…」 「詳しい事情を話すことは出来ないけど、女の身では新選組に入ることは出来ないから男装して入隊したんだ」
綾は一年前のことを思い出した。 屯所を訪れたのはちょうど今くらいの時期だった。近藤、土方、山南に頭を下げ隊に入れてくれるよう頼んだ。 将軍家の秘密を話し半ば脅すようにして入隊してしまい、そのことが尾を引いて暫く遠巻きに見られていたこと。ようやく今になって蟠りが解けつつあること。 昨日のことのように思い出すのに月日が流れるのは早いものだと、綾は嘆息した。
「ある時偶然近藤先生にお会いしたのがきっかけだった。それまでの私はただ流されるままに生きていた。自分で自分のことを決めたことなんて、なかったよ」 「……」 「だけど近藤先生の志を聞いて、目の前が晴れたんだ。パアッと明るくなった」
千鶴は黙って真剣に話を聞いている。 真っすぐ迷いなく見つめるから、こちらが躊躇してしまうくらいだ。 綾は軽く微笑んで空を仰いだ。
「それに出会ったその時、ちょうど私は酷く落ち込んでいたところでね。近藤先生は初対面だった私ですらも励まし導いて下さったんだ。大した器の方だと思ったよ」 「近藤さんは、お優しいですもんね」 「うん、とても。でもあの方はお優しいだけでなく、意志が強い。真っすぐに生きてきた実直な瞳をお持ちだ。あれは誰にでも真似出来るものではない」 「真っすぐな、瞳…」 「だから私は近藤先生についていきたいと思ったんだ。近藤先生と共に、近藤先生の夢を実現させたいと思ったんだ」
好き、憧れ、尊敬。言葉にすれば容易いが、綾にとって近藤への想いはそんな枠に収まらなかった。 武士の姿を体現したような近藤と、曲がることのない志。それを隣で見ることが綾の夢となった。 だから無理を言って色んなものを押し通して新選組に入隊したのだった。
「私は女であるけど、この気持ちだけなら誰にも負けるつもりはない。隊士としてお役に立てるなら本望なんだよ」
綾は静かに千鶴を見つめる。千鶴の大きな瞳もまた、真っすぐに見返していた。 千鶴は小さく笑うと、深く頷いた。
「解りました。理由を教えて下さってありがとうございました」
上辺しか話すことは出来なかったが、それが嘘でないことは伝わったらしい。 千鶴は晴れやかな面立ちで笑っていた。 徳川や会津のことを話す訳にはいかないから、綾としても追及されずに済んだことに安堵を覚える。 はぐらかすのは信用していないと言うようで、少しばかり心苦しかった。
「私が女だということは、幹部の中でも試衛館派しか知らない。だから絶対に秘密でね」 「はい、勿論です。口外致しません」 「ありがとう」
綾も満面の笑みを浮かべる。千鶴に真実を話すことが出来て、内心喜ぶ気持ちがあった。これで以後同性として接することが出来るからだ。 和やかに微笑みあったが、ふと千鶴は思い立ったように表情を固めた。
「綾さん、あの、」 「うん?」 「“綾”って本名ですか?」
おっかなびっくり千鶴が尋ねると、綾は面食らい瞬きを繰り返す。 しかし直ぐに笑いながら頷いた。
「そうだよ」
一片の曇りもない明るい返事に、千鶴は嬉しそうに頬を緩ませた。
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