第十二章
強者
元治元年六月五日、夜。 広間には総数三十五人の隊士が集まっていた。
本日大捕物に参加する面々を前に、土方が幹部の前でしたものと同じ説明をする。 綾は逸る気持ちを極力抑えながら、静かに話を聞いた。 新選組入隊以来、初めての大きな仕事だ。緊張しない方がおかしい。 自分も関わりを持てるのはとても誇らしいことだと、綾は思った。
「では近藤隊と土方隊に分けて行動する。各組長の指示に従うように」
解散、と言い放った土方の言葉を合図に、一同は立ちあがった。
部屋を出ようとした綾は、不意に視線を感じて振り返る。 広間の隅に着座していた千鶴が、胸の前で手を握って俯いていた。
「千鶴」
ゆっくりと近寄り、しゃがんで視線を合わせる。千鶴は驚いたように顔を上げ、そして目を見開いた。 どうやら綾が傍に来たことに気付いていなかったらしい。
彼女の大きな瞳に揺れるものを見つけ、綾は不謹慎ながらも胸を熱くした。 恐らく心配してくれているのだろう。 自分を捕えている者たちだというのに案じてくれるとは、やはり心優しい娘だと思った。 綾は他人に心底心配されることが少なかった。 染や家茂以外に打算抜きで自分の身を案じられなかった。皆、初めに“姫に怪我でもさせれば己が危ない”と考える。 仕方ないこととはいえ寂しい事実だった。
勿論千鶴の気持ちは自分だけに向けられたものではないが、それでも嬉しかった。 抱きしめて慰めようと思い、寸でのところで止める。 千鶴は未だ綾が女だとは知らぬはずだったからだ。 代わりに手を伸ばし、綾は優しく彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だから」 「綾、さん」
潤む瞳に微笑むと、綾はそのまま立ち上がった。 時間が無いしあまり言葉を掛け過ぎても良くないだろう。 踵を返し今度こそ部屋を出た。
門の前には隊士が集合している。綾は平助の真横に並んだ。 夏の空は夕陽が傾きかけ紫色に染まっている。風が頬を撫で、綾の遅れ毛を弄んだ。
「いざ出陣!」
近藤の号令に合わせ、屯所を出る。すっかり人通り少なくなった道を突き抜けた。
池田屋の傍に到着した頃には陽は落ちていた。気付かれぬよう灯りを全て消す。 物陰に身を潜め偵察に行った山崎の報告を待つ。誰ひとり無駄口を叩かなかった。
「近藤局長!」
暗がりから山崎が戻ってきた。その表情に僅かな興奮を見出し、綾は生唾を飲み込んだ。 それは平助を始め他の面々も同じだったようで、皆顔を輝かせている。
「おお、どうだった?」 「当たりです!こちらが本命です」
思わず綾は平助と顔を見合わせた。本命は池田屋。四国屋とばかり思っていたので、意外な展開だった。 山崎が会津藩と屯所に行くことになる。会津は要請を出したにも関わらず、未だに応援を寄越していなかったので催促するのだ。 闇に消えゆく山崎の背に皆は期待を籠めた。
それからいか程経過したのだろうか。 綾は壁に背をつけ、打刀を見つめた。南紀重国。家茂から授けられた名刀である。 大捕物になることを承知で、いつもの刀ではなく南紀重国を持ってきた。
綾は昼間の原田の話を思い返した。 死を恐れぬ者ではなく、死の恐怖を乗り越えた者こそが最強になれる。 本物の剣客に自分は成れるのであろうか。いや、成らねばならない。 静かに近藤の背を見つめる。一年前、近藤と出会った時を思い出す。 悶々と過ごし自らを殺し続けた日々。泥沼から救ってくれたのは近藤だった。
「会津藩はまだか」
近藤が僅かな苛立ちを含ませたことで、綾は我に返った。 空を見上げれば屋根と屋根の隙間から月が覗く。山崎が伝令に行ってから随分と気が経っている。 だというのに一向に会津も桑名も現れる様子がなかった。
綾の顔から血の気が引く。 よもや会津は新選組を見捨てる気なのか。しかし長州と会津、犬猿の仲であるし長州の不審な動きは会津にとって好都合でもある。 取り締まらない訳はないだろう。政治的思惑抜きにしても、正義感強い容保が事態を放置する訳がない。 となれば、会津は新選組に全てを押し付ける気なのか。
「近藤、先生」
綾の僅かに震える声に、近藤だけでなく場にいる皆が眉を顰める。 訝しげな瞳が彼女の体に突き刺さった。
「私を、会津藩邸に向かわせて下さい」 「な、に」 「会津藩邸に援軍を呼びに参ります。行かせて下さい!」
突然の申し出に近藤を始め、平助や永倉までも言葉を失った。 綾を会津藩邸に。確かに上手い手かも知れない。なんせ綾は会津の姫だ。容保に難なく目通り叶う。 そこまで考えるが、沖田がハッと息を飲んだ。 そして険しい表情で綾の目の前まで歩み寄ると、睨みつけるように凝視した。
「雪之丞くん、ちょっと」
そう言いながら沖田は返事を聞かず、綾の腕を掴み路地の奥へ引っ張る。 呆気にとられる一同を残して二人は隊から離れた。
綾は沖田の行動を理解出来ず、ただただ従った。 路地の裏側には時刻が時刻だからか人っ子一人見えない。 沖田は軽く辺りを見渡した後、視線を綾に落とす。その瞳があまりに冷たいので、綾は身を竦ませた。
「あのさ、君って馬鹿でしょ」 「…え?」 「馬鹿だって言っているんだよ」
沖田の声音はいつもよりも低い。少し余裕がないようで、早口だった。
「雪之丞くんって容保様以外には内緒で新選組に入隊しているんだよね?その君が浅葱の羽織を着て藩邸に駆けこんだら、大騒ぎになるって解らないの?」
諭すような言葉に、綾は面食らった。すっかり冷静さを失い、とんでもないことをしでかそうとしていた。 確かに綾がこのままの恰好で向かえば援軍どころではない。容保にも染にも、近藤にも迷惑がかかる。 そんなこと考えれば直ぐに解ることだった。
「あ…」 「君は僕なんかよりもずっと学があるんだから、それくらい気付きなよ」
声を失い青くなった綾に言い放ち、沖田は息を吐く。 気付かせてくれねば大変なことを仕出かすところだった。
「沖田さん…」 「なに」 「ありがとうございました」
綾が礼を言うと、沖田は僅かに表情を緩める。 近藤さんの為だから、と彼は素っ気なく言い放った。 そして掴んでいた腕をようやく離し、踵を返して元の場所に戻っていった。
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