五月雨 | ナノ









第十一章

綺麗事




元治元年六月。
蒸し暑い京の夏が始まった。


土方に呼ばれていた平助が戻ってきたので、綾は木刀を振る手を休めた。
本日八番組は夜の巡察である。それまでは時間があるし、蕎麦でも食べに行こうと言っていたのだ。


「おう、綾。お待たせ」
「お帰り。土方さん、何だって?」
「今日から千鶴を巡察に同行させるってさ」


平助の軽い口調に綾は目を見開いたが、直ぐに笑顔に変わる。
近頃では京の町中も随分と物騒になってしまい、土方は千鶴の同行に難色を示していた。
確かに連れて行くことを安全とは思えない。
しかし千鶴が父を案じていると知っていた綾は、早く外出出来る日がくるなら良いと思っていたのだ。


平助は綾の嬉しそうな表情に自分も笑みを落とした。


「で、一番組が昼間の当番だから、総司に任せた。流石に夜の巡察に連れ回す訳にはいけねぇからな」
「確かにね。夜だと千鶴を守りながら動くのは難しいかな」


残念だとは思ったが、仕方のないことだ。夜の巡察は昼間よりも数段危険を伴う。
それに本日はもう一つ拙い理由があった。


「私は死番だから、千鶴の傍にいられないし。同行するのが沖田さんなら安心だね」


平助は顔を僅かに歪めた。
平気そうな声音ではあるが、表情が曇り気味だと気付いた。
記憶を掘り返せば、綾は既に何度か死番を経験している。が、夜に回ってきたのは初めてではないか。
それで、と平助は思った。それで何かを押し殺したような顔をしているか。


「お前、怖いの?」
「え?」
「死番だよ。怖い?」


尋ねられて綾は戸惑う。答えられなかった。
恐怖の気持ちは先ほどから胸に巣食って、徐々に浸食していった。
隊務中の死亡例は圧倒的に夜の巡察によるものだ。
もし死ぬとしたら今夜なのではないかと、綾は思った。


それでも即答出来なかったのは、性格上の問題である。
武家の、しかも生粋の大名家の娘として生まれた。久松松平家で育てられはしたが、徳川一族の誇りを忘れるなと乳母は幼い綾に何度も言い聞かせた。
綾の乳母は染の母親である。幾分か年上の染は会津に移った後も、口癖のように母の言葉を言った。
徳川である以上、武家の中の武家であれ、と。


上に立つ者ほど安易に弱音を吐いてはならない。弱音があることすら悟られてはならない。弱音は弱みだ。そんなものを握られてはならない。
心の奥に押し込め、弱い部分は塗りつぶし消すべきである。
だから綾は誰かに弱音を言うことを誰よりもみっともなく思っており、恥であると刷り込まれて育った。


眉間に皺を寄せて様子を見守っていた平助だったが、平隊士がちょうど平助を呼んだので場から離れた。火急の用というから仕方ない。
ここで待っている、と笑った綾の笑顔が強張っていたことに、平助は息を吐いた。
心を開いていないという訳ではないのだ。性分だから余計性質が悪い。


去っていく平助の背中をぼんやり見送り、そして空を仰いだ。
新選組に入ると決めた時、死をも恐れないと決めたはずだった。嘘ではなく、本心だ。
なのにどうして自分はこうも躊躇しているのだろうか。
情けないことだ。嘆かわしく、みっともない。
強くありたいのに、自分の気持ちすらままならないとは。
綾は深くため息をついた。八番組伍長が聞いて呆れる。


「お、雪之丞」


不意に背後から声を掛けられ、一拍遅れて綾は振り返った。
声の主は原田だった。
平服姿なので非番なのだろう。腰に刀を差してはいるが、彼の代名詞である槍はどこにも見当たらなかった。


「どうしたんだ、こんな所で」
「平助と蕎麦を食べに行くのですが、只今平助は呼ばれていまして待機中です」


綾の笑顔に、原田はそうかと言いつつ顔を顰めた。
どうにも引っかかったのだ。張り付けたような笑みに見えた。


「…なんかあったか?」
「え?」
「なんか、あったのか?」


口ごもった綾を見て、原田は答えを聞かずとも悟った。
縁に腰掛け、綾にも座るよう促す。
恐る恐るといった風に彼女は従った。


「悩み事か?」
「…なんで、」
「なんつーか、雰囲気がおかしいからよ。少し怯えているような」


図星だった。綾は黙って俯いた。
原田と個人的に話すようになって、もう半年になるだろうか。
単純に年上だというだけでなく、そもそも原田自身が人の感情に鋭いと思っていた。
よく周りを見て気を遣う男だ。年下の綾の変化くらい、何てこともなく見抜いたのだろう。


それでも何も言えずに唇を噛んだ。
原田を信用している、いないの問題ではなかった。みっともない意地だ。
武家である以上、弱みを見せてはならない。
戒めが声を殺していた。


あくまで頑なな態度を貫く彼女に、原田は苦笑する。
息を抜くのが下手な娘だと思った。
生まれや今までの境遇を顧みれば仕方のないことだろうが、だからこそ心配になる部分だ。
弱みを見せないのは強みであるが、同時にいつ壊れるかの危さを含んでいる。


ぽん、と軽く手のひらを綾の頭に載せると、原田は彼女の顔を覗き込んだ。


「ここだけの話にする。誰にも言わねぇし、俺もこの場限りで忘れる」
「原田さん…」
「何言われてもみっともねぇとか思わねぇから。だから言えよ」


どこまでも真摯な瞳だった。心底自分を案じている、嘘のない眼差し。
綾は一度だけ深く頷いた。
差し迫る恐怖を言葉にしようと思った。







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