第十章
梅
元治元年三月。 屯所の梅の花も咲き乱れ、仄かな香りを漂わせている。
綾は千鶴の監視という名目で彼女の部屋に向かっていた。 千鶴が新選組にやってきて早三ヶ月。自分も彼女もこの雰囲気に、大分馴染んできたのではないかと思っていた。
「千鶴、いい?」 「あ、どうぞ」
襖越しに声を掛けると、間髪いれずに返事が返ってくる。部屋の中で千鶴は縫物をしていた。 最近では暇さえあれば千鶴は手伝いをしている。料理や裁縫は昔からしていたとだけあってお手の物で、隊士たちは千鶴が食事当番と聞けば喜んでいた。 それは綾も例外ではない。故郷の味とは違うが、江戸風味の味噌汁はどこか懐かしい気がしていた。
千鶴は綾に笑顔を浮かべ、縫物をしていた手を休める。見張りをする隊士は試衛館派の幹部と綾だけであるが、綾は滅多に千鶴の見張りに任命されなかった。千鶴は知らぬが、綾は千鶴の部屋の出入りを土方に反対されていた。
大坂出張から戻った土方は、綾が千鶴に会いに行っているところに遭遇し苦い顔をした。あれ程近寄らぬよう言い含めたのに、と激怒さえした。 しかし原田が庇い説得したことによって、身分と性別を明かさないことを条件に目を瞑って貰うことになったのだ。 ただ、残念ながら千鶴の見張りに綾が任命されるのは、余程のことがない限り有り得なかった。
本日は珍しく綾が御指名されたのだ。 近藤の配慮らしく、肩を軽く叩かれて頼むと言われた。尊敬する師の言うこととだけあって、綾は顔を緩めて承諾したところだった。
「今日は天気がいいね」 「そうですね。よく晴れていますね」
窓を開けて二人並んで空を見上げる。三月の空は水色を伸ばしたような色をしていて、心を和やかにさせる。 眩しい日差しに目を細めた綾は笑みを浮かべ、千鶴に向かって口を開いた。が、それは言葉にならなかった。
ガシャン、と陶器が割れるような音。それを追う怒鳴り声と足音。 綾と千鶴は顔を見合わせた。男所帯で普段から騒がしい場所ではあるが、ここまで酷いのも珍しい。 窓から顔を出して外を窺った綾は、目を見開いた。
叫び声を上げながら三人の男が走ってくる。先頭には猫、どうやらこれを追いかけているらしい。 目を疑ったのは、追いかけているのは隊内でも冷静で有名な三人だったからだ。 沖田、斎藤、山崎。綾は呆然と三人の姿を見送った。
「今の、何でしょう…」
驚いたのは千鶴も同じらしい。 意識せずに口から零れたような言葉に、綾は首を傾げてみせた。大の大人が何をしているのだろうか。 綾が首を引っ込めようとした時、廊下の向こう側から再び足音と叫び声が聴こえた。
「あ、綾!」 「平助?」
ちょうど良いところに!と息を巻くのは平助だった。後ろには原田と永倉もいる。 いよいよ綾と千鶴は訳が解らなかった。先ほどの三人だけでなく、こちらの三人組も関わっているらしい。
驚いている二人を余所に平助は助かった、と連呼しながら部屋に入ってきた。原田と永倉も後に続く。 男三人に押し入られて目を白黒させる千鶴に追い打ちをかけるよう、沖田と斎藤までが中に入ってきた。
平助の話によると、屯所に猫が侵入しその猫が勝手場で作っていた昼食を駄目にしたらしい。 慌てて追い回したが捕まらず、それどころか干していた洗濯物をひっくり返したりと散々だという。
綾は半ば呆れてしまった。 武骨な男に追いかけられれば、猫も怖がって逃げ出すのが本能だというものだろうに。 それでも捕まえておかねば後々厄介なことになるというのは、同意であった。 千鶴までを巻き込んで猫を捕まえることになった。
「そんじゃ、三つに分かれよう。土方さん達を誤魔化す組と、昼食を作り直す組、そして猫を捕まえる組の三手」
どれにする?、と平助は一同を見渡した。昼食当番の原田と永倉は決定として、残りの面々の振り分けである。 難航するかと思いきや、意外に簡単に決まった。尊敬する人を欺きたくないと、沖田と斎藤は猫を捕まえる組に入る。平助は残り物の誤魔化す方へいった。
綾はどこへ行くべきか迷った。 近藤を騙すような真似は綾もしたくない。平助には悪いが、手伝えそうにない。残りは、と迷いが生じる。 普通に考えれば猫を捕まえるべきだろうが、そちら側には沖田がいた。自分が行くと言えば沖田はいい気がしないだろう。料理の方に名乗り出るべきか悩んだ。
「千鶴は左之たちを手伝ってやれ。綾、あんたはこっちだ」
迷う素振りを見せた綾に斎藤が淡々と言い放った。千鶴の元気な返事で、綾は我に返る。 こう指定されてしまえば仕方ない、反論出来ない。 頷けば斎藤は軽く目配せし、立ち上がって部屋を出る。その背を綾と沖田が追いかけた。
「で、どうする?分かれて探す?」
中庭に出たところで沖田が言った。猫はいつの間にか何処にいるのかも解らなくなっている。捕まえる前に探さねばならないということだった。 その提案に斎藤は首を左右に振った。
「三人でいた方が良いだろう。捕まえる時になって一人では先ほどの二の舞だ」 「それもそうだね。じゃあ、猫が行きそうな場所を考えようか」
あっさり引き下がった沖田は腕組みをして見渡した。不意に目が合い、綾は身体を強張らせる。 近頃では沖田に会うと反射的に緊張していた。幼少の頃から嫌みなら言われ続けたが、こうも特定の人に嫌われることは無かった。 綾は元の身分が高いので陰口こそあれ、目の前で皮肉を言われるなど滅多に起こり得なかった。 特に容保の養女になってからは、会津の姫として敬われることの方が多かったのだ。
打たれ弱い自分に腹が立つ。綾は幾度も情けない想いをしたが、それでも胃がねじれそうになるのは止められなかった。
沖田はすっ、と翡翠色の瞳を細める。綾が自分のことを苦手としているのを、彼自身知っていた。 自分の今までの態度を考えれば仕方のないことだと思っていたし、何より沖田は好かれようとしていないので大したことではないと打ち捨てていた。
「雪之丞くん、猫が好みそうな場所解る?」 「私、ですか?」 「雪之丞なんて名前、君しかいないけど」
瞠目する綾に沖田が冷たく言い放った。 ぐっ、と拳を握りしめた後で思案する。 綾は記憶を呼び起こした。
「暖かい場所にいるのではないでしょうか。日向ぼっこを好む印象があります」 「暖かい場所、ねぇ」 「幹部の私室が並ぶ辺りの縁側ではないか。あの辺りは暖かい」
斎藤が提案すると、沖田は頷いて同意した。 どの道居場所は解らないのだから、目星をつけながら探す方が効率良い。 三人は並んで目的地に向かって足を進めた。
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