第九章
宵闇
文久四年一月末。 肌寒さに凍える朝、綾は木刀を片手に中庭に出た。
刀買いに付き合って貰って以来、斎藤は約束通り綾の師匠になった。 剣術の名手というだけでなく教え方も丁寧で解りやすい斎藤は、これ以上ない師である。 互いに役職に就いており多忙だが、それでも時間を作っては鍛錬をした。
中庭には既に斎藤の姿があった。慌てて綾は駆け寄る。 教えて貰う側だというのに遅刻するのは失礼に当たる。
「斎藤さん!遅れてすみません」 「いや、俺も今しがた来たばかりだ。案ずるな」
蒼白になって謝罪する綾に、斎藤は首を振った。 冬の早朝は起きるのも辛いはずなのに、待ち合わせに斎藤は一度も遅れたことがない。常に図ったように時間通りである。 模範的な行動を目の当たりにすると、綾の背筋も伸びる気がした。
斎藤の手に木刀はない。本日は主に突きの型を見て貰うことになっている。 三番組が朝一番の巡察を控えているので、朝食の後そのまま向かえるよう腰の得物だけにしているのだ。
いつものように綾は木刀を構えた。 綾は技の中で突きを一番不得手としている。それでも上手くこなしてはいるが、苦手なものは無くしておくに限る。 斎藤は軽く指導を入れて綾の突き技を見守る。時折修正を加えながら助言をした。
一人で鍛錬するよりも斎藤の教えを受けてから、綾は自身の腕が上がるのを感じていた。 師がいるというのはこれほどまでに違うのかと驚いた。それは嬉しい発見だった。
「もう少し姿勢を正せ。腕がなっていない。呼吸を疎かにするな」 「はい!」
教え方は決して温いとは言えない。容赦なく厳しい言葉が飛ぶが、それすら綾には嬉しかった。 女ではなく姫でもなく、一介の剣士として向かい合う。その証拠だからだ。
理想の型を目指して何度も何度も繰り返し木刀を振る。突き技は新選組に属している以上尤も重要な技の一つだ。 人は斬られるよりも突かれるほうが致命傷である。左胸を斬るより、心臓を一突きした方が致死率を上げると云えば解りやすい。 新選組である以上、突き技を苦手だとは言っていられない。
綾は女だということが弊害となり、他の隊士に比べ力が弱い。 そのために突きが中途半端になってしまうのだ。 改善するには角度や傾斜を正確にし、弱い力であっても効果を発揮するようにせねばならなかった。 斎藤の指導を受け、ここ数日綾は突き技の練習を重ねていた。
不意に斎藤が綾から目を離す。集中力を飛ばすことが珍しい男なので、綾は訝しげに眉をひそめた。斎藤の視線は背後に向けられた。
「総司か」 「こんなに早くから鍛錬?っていうか、珍しい組み合わせだね」
耳に入った声と、斎藤の呟きに綾は瞠目して動きを止める。振り向けば予想通り平服姿の沖田がいた。 綾は相変わらず沖田が苦手であった。 何かと辛く当ってくる沖田を自然と避けていたし、沖田の方も綾に関わりたがらない。 嫌われている、と誰に言われなくとも解っていた。 親しくなくとも人に嫌われるのは気持ち良いものではない。綾はそう思えば思うほどますます沖田から逃げていた。
斎藤は僅かに表情を崩し、眉を顰めて沖田を見つめる。瞳には不信感が浮かんでいた。 沖田が綾のことを快く思っていないと、斎藤はよく存じている。 故にわざわざ二人に近づいてきた沖田の真意を図りかねていた。
「何の用だ」 「酷い言い草だね。通りかかったら木刀を振る音がして、興味本位で寄ってみただけだよ」 「ではもう確認は終わっただろう」 「ちょっと、何で僕を追い払おうとしているのさ」
淡々とした斎藤に、沖田は不機嫌そうに眉を寄せる。 綾は斎藤のあまりに冷たい態度に愕然としたが、直ぐに理由を察して済まない気持ちになった。 斎藤は綾の身体が強張ったのを見て、沖田を退けようとしているのだと解ったからだ。
無表情で冷静な態度なので誤解され易いが、斎藤は情け深い男だ。 人の思惑を察知し先回りする性質故に余計細やかな心遣いを見せる。今回も例に漏れず発揮された。
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