五月雨 | ナノ









第七章






文久三年十二月末。
寒さは日に日に厳しさを増していく。


綾は木刀を振っていた手を休めた。寒さのせいで手のひらはかじかんで真っ赤になっている。これ以上振り続けるのは困難だ。
息を吹きかけて擦り合わせながら、縁側に座り込んだ。
空を見上げると、少し灰色がかった雲が浮かんでいた。夏の明瞭な青とは違い、冬空は晴れていてもどこかぼんやりとしている。それでも太陽が昇っているうちはまだ良いと、綾は嘆息しつつ視線を前川邸に移した。


羅刹の話を聞いたはいいが、あれ以来特に前川邸にも足を運ばなかったので実物は未だ見たことがなかった。
白髪紅眼の血に飢えた…、もう“人”ではないもの。やはり信じられない。
しかし話は本当なのだろうと、綾自身解っていた。
原田や永倉は綾が羅刹のことを聞かされたと知っていた。幹部会で土方が知らせたらしい。
勘がいい原田は「お前は気に病むな」と言った。あの鋭さには舌を巻くものだ。


綾は正直徳川家のことなどどうでも良いと思っている。
確かに紀州徳川家の血を引いているし、前将軍の家定とは従兄妹に当たる。実父の斉順が十一代将軍家斉の息子なので、事実上徳川宗家の血筋なのだ。
存在の公表はともかく、血筋は立派な徳川一族だ。双子の弟が将軍になった一番の理由が、その血統の良さだったことが証拠である。


それでも徳川家に一切親愛の情はなかった。
恐らく旗本や幕臣や、全く関係ない人間の方が愛着を持っているだろうという程に。
幼少の頃から邪険にされ、姫として育てられるどころか影武者にしようとし、問答無用で養女に出されたりと散々な目にばかり遭わせられた。そんな家に愛情を感じろというのが無理な話である。


幾度となく徳川家には苦汁を嘗めさせられてきた。
綾は家茂以外の徳川家の人間に全く心を許していない。他人より余程他人だと思っている。母、実成院とも数回しか会ったことがなかった。会話など、覚えてすらいない。
それでも今回の羅刹の件は、虚脱感を味わった。


絶望に、場にいた平助はまだしも原田まで気付いたのには驚いた。目敏い人だと思う。申し訳なくも嬉しかった。自分に気を回してくれる人がいるのは、なんと心強いことだろうか。綾は本当に安堵した。


羅刹のことは以来口に出していない。不要な心配をかけたくなかったし、軽々しく話すのも何だか躊躇われる。切腹を申しつけられた隊士の一部が羅刹になったと聞くが、彼らの末路は知らないし尋ねもしなかった。


「雪之丞」


ふと呼ばれて綾は視線をずらした。全く気配に気づかなかったことを驚いたが、すぐに目先にいた人物を確認して納得する。そこにいたのは斎藤だった。
隊内屈指の剣客である斎藤一は気配を消すことくらい、朝飯前である。
影のように場に溶け込んで馴染む。監察のような任務をこなしていると聞いたことがあった。姫育ちの綾とは大違いなのだ。


斎藤は相変わらずの無表情のまま、綾の傍まで歩み寄った。
自然と見下される形になるが不快ではなかった。斎藤の雰囲気が柔らかいからだろうか。


「稽古か?」


立て掛けられた木刀を一瞥し、斎藤が尋ねる。
そうですと綾が頷けば、彼は僅かに表情を緩ませた。


「あんたは練習熱心だな」
「そうでしょうか」
「練習している姿を度々目にする。常日頃励んでいる証拠だろう」


言葉少なに褒められ、綾は照れ臭くて視線を外した。斎藤とは親しくないが、人となり自体は知っている。嘘を言わない男だ。特に剣術に関しては厳しい。
ただ斎藤自身がそれに見合うほど練習を重ね実力を持っていることも、綾はよく解っていた。世辞を言わない。だからこそ嬉しい。


斎藤は涼やかな目元をすっと細め、眩しいものを見るような眼差しで綾を見つめた。


「雪之丞は紀州田宮流だったな」
「え?あ、はい。そうですが」
「居合は得意か」


ふいに尋ねられた事柄に、綾は慎重に頷いた。斎藤は居合の達人である。平助が手放しに褒めていたのだから違わないだろう。
綾自身は斎藤の居合を直接見たことはない。違う組に属しているし、道場稽古の際は互いに木刀のため居合を披露することはなかった。


意図が解らず顔を顰める綾に、斎藤は表情を崩さない。
藍色の瞳を真っすぐ向けているだけだ。


「居合を見せてくれないか」
「……え?私が、ですか」
「お前の他に誰がいる」


綾は目を丸くする。通常一つの流派に属するものは、他流派に目をかけないものだ。道場を移るのは良しとされていない。一人の師を敬うものである。
特に斎藤は居合を得意手としているのだから、流派違いの綾の型を見ていかがするのだろうか。首を傾げたが、綾は断る理由もないので立ちあがった。


間合いを取って鯉口に手をかけた綾を、斎藤は眉ひとつ動かさずに注視している。何だか見られるというのも気恥ずかしい。
綾は緊張を解すために深呼吸を繰り返し、それから刀に意識を集中した。


背筋を伸ばし芯を整える。姿勢が崩れる瞬間こそ、“隙”だ。隙のない武芸者は皆姿勢が良い。特に居合においては重要視される。


綾は前を真っすぐ見据え、瞬時に抜刀した。刀は鞘を抜け白昼の下、銀色の身体をさらけ出す。風を斬る唸りが辺りに轟く。太陽の下で、刃先は煌めいた。
天に刃を向けた綾を、斎藤は黙って見つめていた。沈黙が訪れる。
軽く音を立て、綾は刀を鞘に滑るように納めた。


「斎藤さん」


綾が声をかけると、斎藤は顔を上げる。無表情ではあるが、瞳は真摯だった。


「わざわざすまぬな」
「いえ。何かのお役に立てましたか」
「ああ、参考になった」


斎藤の声音は僅かに弾んでいるように思われた。参考になった。何か技でも考えているのだろうか。綾は首を傾げた。
その不思議そうな視線に、斎藤はようやく口を開いた。


「他流派の居合も見ておきたかったのだ。紀州田宮流は出会ったことがなかったからな」


試衛館に辿りつくまで、斎藤は幾度となく道場破りを繰り返してきた。左利きが無作法だと詰られ、特定の道場に師事したことがない。試合に勝っても反則だと罵倒された。
故に斎藤には流派への拘りはなかった。良いと思ったものは全て取り入れる。あくなき姿勢が彼を強くした。


斎藤は他の幹部と同様綾の存在を快く迎え入れた訳ではない。しかし違ったのは、色眼鏡にかけて評価しなかったことだ。
先入観を持って人を見るのは、実物から狂わせることを意味する。右差しで理不尽な目に遭ってきた彼だからこそ日頃心得ている。
数ヶ月間綾を見て、斎藤は彼女が並みの覚悟ではないことを知った。口だけではなく努力を重ねていることも。


「雪之丞」


口元を緩ませ、斎藤はじっと見つめた。眼差しは優しい。


「お前は真っすぐな太刀筋をしている」
「……え?」
「良い居合だ」


意表を突かれ瞬きを繰り返した綾だったが、言葉を理解すると同時に微笑んだ。
認められるのは、大海で浮き木に出会う思いだった。








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