五月雨 | ナノ









第四章

覚悟





八月十八日の政変で、浪士組に対する見方は大幅に変わった。
蔑ろにされ続けていた立場が、一目置かれるようになった。
良くも悪くも世間に一気に名が知れた。


会津藩主である松平容保は、功績を讃え浪士組に一つの名を与えた。
新選組。
後世にまで伝わることになる、誠の武士を称する名である。


しかし綾は全く政変に関わっていなかったし、加入直後と働きに変化はなかった。
近藤の小姓という立場だが、実際は茶飲み友達のようなものだ。
綾をあちらこちら連れ出す訳にはいかないので、外出が格段に増えた近藤との別行動は多い。
しかも隊に属していないと、巡察にも加えてはもらえなかった。


近藤が屯所にいない時、仕方ないので綾は稽古に励むことにした。
道場に顔を出したり、空きがない時は裏庭で一人木刀を振った。
お陰で初めの頃は重かった木刀も軽々振れるようにはなったが、綾は満足出来なかった。


近藤の志を助けるために入ったのに、実際は何の役にも立っていない。
小姓というのは名前だけ。
相変わらずただの厄介者だ。
もどかしさだげが募っていく。
でも自分が良く思われていないのは知っているから、綾は不満を口にはしなかった。
態度に出ているかどうかは別問題ではあるが。


「九十八、九十九、百!」
荒く息を吐き、綾は木刀を下ろした。
額には汗が浮かんでいる。懐から手拭いを出した。
空を見上げれば視界の先に太陽が輝いている。
夏の太陽だ。
目を細めた後、誰かの気配を感じ、綾は視線を庭先に移した。
途端に眉を寄せる。
すぐ近くに満面の笑みを浮かべる沖田がいた。


初日の稽古以来、平助の忠告通り綾は沖田を避けていた。
近藤大好きだという沖田にどう接していいのか解らなかったし、自分が同情すればますます沖田は良く思わないだろうと思った。
彼の方も綾に興味がないらしく、あまり関わってこなかったのだが…。
一体何の用事なんだろうと顔をしかめた。


「精が出るね。そんなに一生懸命稽古しても、巡察に出るわけじゃないのにさ」
「それは、そうですが…」
「君は女の子なんだし、意味ないんじゃないの」


沖田の目は笑っていない。
それでいて何かを探るように見据えている。
綾は表情を強張らせた。
確かに自分は何の任務にもついていない。
それどころか土方には、芹沢一派に近寄らないよう申しつけられ、活動範囲が制限されている。
近藤の傍に始終いることも許されてはいない。
何よりもそれを気にしているのは綾自身だった。


「然るべき時に備えて稽古しておかなければと思いまして」
「ふぅん、感心だね。で、然るべき時って?」
「え?」
「屯所に籠っているだけの君に、そんな時が訪れるとは思わないけど。近藤さんは君に守られるほど弱くはないしね」


痛いところを突かれ黙り込んだ綾に、沖田は追い打ちをかける。


「そもそもお姫様がこんな男所帯にきて何しようっていうの?」
「それはっ」
「姫様なら姫様らしく、お屋敷の奥で守られていれば良かったんじゃない?」


綾はハッと顔を上げる。
沖田は批難混じりの厳しい声音だ。
まるで視線で人が殺せるかのように、目を細めて睨みつけている。


「君さ、足手まといなんだよ。役に立つどころか迷惑かけてる」
「…」
「確かに剣は遣えるかもしれないけど、それって実践じゃ役に立たないよね」


沖田の言葉に綾は目を見開く。
幹部たちには敵わないが、綾の実力は隊内でも抜きんでている。
最近では小姓ではなくて、どこかの隊に付けて欲しいとの声があると近藤は言っていた。
天狗になるつもりはない。しかし実力がないように言われるのは心外だった。


「俺の剣の何がいけないんですか」


自分で思うよりも遥かに尖った声で綾は反論した。
しかし沖田には想定内だったのか、表情を崩さずにいる。


「雪之丞くん、君、人を斬ったことないでしょ」
「え?」
「誰かを殺したことあるの?あるわけないよね。姫育ちの君が、人殺しなんて」


零れそうなほど、綾は目を丸くしていた。
沖田の言うとおり、これまで一度も人を斬ったことがない。それどころか動物ですらも。
その事実に綾は動揺した。
今まで考えたこともなかった。


綾を注意深く観察していた沖田の口元から笑みが消える。
底冷えした声は、夏だというのに綾の身体に冷たさを感じさせた。


「世間では人殺しは大罪だけど、ここでは違うよ。人を斬ったことがないのは恥じるべきことなんだ」
「……」
「実践で役立たないなら、それはないのと同じだよ。ねぇ、人を斬りたくないなら大人しくお姫様に戻ったら?気まぐれでいられちゃ困るんだよね」


何も言い返せなかった。
反論する言葉は思い浮かばなかった。
自惚れていたのだと、綾は思った。
剣術に自信があった。だから自分は近藤を助ける力があると思った。
それを真っ向から否定された。しかも言いがかりにしろ、真実だった。


「あ、雪之丞!」


その時、場に合わない明るい声がした。
平助が大きく手を振りながら近づいてきた。


「こんなところにいたのかよ。土方さんが呼んでる」
「え?あ」


戸惑った綾に、平助は満面の笑みを浮かべて行こうと促す。
土方は上司に当たる。呼ばれているとなれば、行かずにはいられないだろう。
しかし沖田を無視する訳にもいかず進退窮まった綾は顔を顰める。
はぁ、と大げさに溜め息をついたのは沖田だった。


「早く行きなよ。あの人、気が短いから」
「は、はい」


平助に腕を掴まれたまま、綾は沖田に軽く一礼して場を離れた。
ぐいぐいと強い力で平助は綾を引っ張る。
先ほどまでの場所から少し離れたところで、ようやく彼は足を止めた。


「大丈夫か?」


気遣わしげなその一言で、綾は全て悟った。
沖田から助けるために嘘をついてくれたんだ。
胸が温かくなるのを感じながら、深く頷いた。


「全く総司も容赦ねぇよな。そんなに当たらなくてもいいのに」
「でも沖田さんが言ってたことは正しいから」
「あ?そういや、何言われてたんだ?」


平助の言葉で、綾は彼が話を聞いていたわけでないのを知る。
だからすぐには助けられなかったんだろう。
大方綾の表情が曇るのを見て、機転を利かせてくれたのだ。
綾は小さく笑った。
平助は本当にいい奴だ。


心配の色を浮かべる平助の瞳を、綾は覗きこむように見つめ、意を決した。


「平助」
「ん?」
「初めて人を斬った時のこと、覚えてる?」


綾の唐突な質問に驚いた顔をしたが、平助はすぐに事情を察した。
沖田が言いそうなことだ。
いい加減当たるのはやめてあげるといいのにと、嘆息した。


「言っておくけど、俺が初めて人を斬ったのはそんなに昔じゃねぇからな」
「え?」
「京で初めて斬った」


新選組は結成して間もない。まだ一年も経っていない。
意外で目を見開く綾の頭を、平助は乱暴に掻き撫でた。


「入隊以前に人斬りしたことある人間なんか、本当に限られるぜ。用心棒していた一くんは確実だけど他の人はどうかな」


あっけらかんと言い放った平助の言葉に、綾は気づいた。
そうだ、みんな新選組に入るまではただの庶民だったのだ。
殺人は大罪だ。故に理由なく人斬りするとなれば、それは褒められたことではない。
暗に前置きして、平助はそうだな、と唸った。


「初めて人を斬った時か。怖かった、かな」
「怖い?人を殺してしまった自分が?」
「それもあるけどさ」


平助は縁側に腰かけ空を見上げる。
流れゆく雲は真っ白で、名も知らない鳥が優雅に飛んでいった。


「あっさり人を斬って、それを受け入れた自分が」
「……」
「命のやり取りの前では、道徳観念なんかなかった。ただコイツを斬らなきゃ俺が斬られる。そう思ったら躊躇いはなかったよ」


解るような、解らないような言葉だった。
綾も平助の隣に腰かけ、真似して空を見上げた。
人を斬る。人を殺す。誰かの命を奪う。
とても重い言葉だ。
自分に出来るのだろうか。
不安になって表情を曇らせた綾に、平助は明るく笑った。


「焦らなくてもいいじゃん。時がくれば、きっと解るさ」
「平助…」
「それまでに覚悟しとけば?」


な?と言われ、綾はようやく笑顔で頷いた。
モヤがとれたわけではないが、平助の励ましはありがたい。
明るい声に救われた。


「それよりさ、今日の巡察の土産買ってきたんだ。一緒に食わねぇ?」
「何を買ったの?」
「団子」


部屋に置いてあるんだ、と平助は笑う。
初めて会って井戸で会話を交わして以来、平助は綾に対して好意的だった。
他の幹部たちも悪い態度な訳ではないし、辛らつなのは沖田くらいである。
だがそれでも他の平隊士たちとは違い、どこか気遣われているのを綾は感じていた。


だから平助の態度は有り難かった。
平助は普通に接してくれるし、こうして時間が出来たら綾の傍で色んな話をしてくれる。
明るくてお人よしの平助のことを、綾も好意的に見ていた。


生まれのこともあって今まで隠れて生活していた綾には友と呼べる存在がいない。
染にも本音は話していたが、あくまで染は侍女頭で対等な立場ではなかった。
友達って、こういう関係をいうのかな。
綾は平助の笑顔を見つめながら、釣られて笑った。








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