五月雨 | ナノ









第三十二章 

空蝉




慶応三年八月、茹だるように暑い日が続いた。
世の中の動きは相変わらずの状態で、新選組も日々殺伐としている。浪士との小競り合いが増えてきた。
幕臣となった新選組に入隊を希望する者も多く、幹部は日常の仕事の他、隊士の育成にも時間を取られた。
それは今や八番組の組長となった綾も同じだった。


「綾さん」


水で冷やした手拭で汗を拭っていた綾は、その高い声音に振り返った。桃色の着物を着た千鶴が困ったように微笑んでいた。千鶴の両腕には木桶が抱えられている。昼餉の準備でもするのだろうと綾は推測した。


「どうしたの、千鶴」
「いえ、特に用事ではないんですけど…。お姿を見つけたのでつい声を掛けてしまいました」


千鶴が抱えた木桶の中には水が張られていた。胡瓜でも冷やすのだろうと綾は頬を緩ませる。長い間外にいたせいか拭っても拭っても汗が流れ落ちてきた。
夏に入ってもう暫く経った。京の夏は何度越しても慣れることはないと綾は思っていた。じめじめと湿気が多く息苦しい。しかし嫌いではなかった。京の土地にいるということは彼女にとって特別だった。京は彼女を救い出してくれた土地だった。


柔らかく息を吐くと綾はそっと空を仰いだ。雲一つない濃い青に鳶が飛んでいる。目を閉じれば鳴き声が聴こえた。


「暑いね」


唐突な綾の言葉に千鶴は虚を突かれて目を見開く。だがすぐに彼女は笑んで頷いた。


「今日は特にそう感じます。こんな日は無理をしないで、水を沢山飲んで下さいね」
「そうだね、そうしようかな。暑気あたりなんかになってしまっては、目も当てられないからね」


手拭でもう一度汗を拭うと綾は息を吐くように言った。本当に暑い。朝夕の巡察はそうでもないが、真昼の鍛錬が堪える。新米隊士たちはばたばたと倒れている。新選組の過酷な鍛錬だけでも難なのに、この茹だるような暑さだ。何度も過ごしているはずの幹部ですら霹靂しているくらいだから、新入隊士には堪えて仕方ないのだろう。


しかしそれくらいで鍛錬を弱めるわけにもいかなかった。新選組は今や京を守る幕府側の一大戦力である。戦闘力のみを買われてきたような新選組が剣で負けていては世話ないし、それに幹部が減っている今となっては早期の人材育成を求められていた。


敵地に一番に斬り込んでいく勢いのある平助や、冷静で確かな腕の持ち主である斎藤が離れて早数か月。彼らがいない日常にも慣れ始めていた。綾自身、斬り合いの最中に背中を預ける相手がいないことにも慣れたし、朝から一人で鍛錬することにも慣れた。けれど心にぽっかり穴があいたようだと人知れず思っていた。周囲、特に近藤や土方の心中を慮って絶対口にはしないが、恐らく幾人もの者が同じ気持ちだろうと綾は思う。自分がどれほど彼らを頼っていたのか身に染みる。


綾は目の前の千鶴をじっと見つめた。千鶴にしてもそうだった。あの日、平助がいなくなった部屋で泣いて以来一度も口にしていない。平助がいなくなって誰よりも寂しい思いをしているのは千鶴であろうに愚痴一つ零さなかった。


「千鶴」
「はい?」
「あのね」


平助のことを尋ねようと思った。けれどそれは出来なかった。笑みを浮かべて顔を上げた千鶴に、なんと言えば良いのだろう。綾は言葉を見つけることがかなわなかった。


「暑いね」


代わりにもう一度繰り返した。そんな彼女に千鶴は首を傾げるが、追及することなくそうですねと頷いた。
少し前に撒いた打ち水はとっくに蒸発して乾いて跡形もなくなっていた。
蝉が鳴き散らす声を背に、部屋の中に入ろうかと綾が提案する。それに千鶴は微笑みながら頷いた。





[] []
[栞をはさむ]


back