第三十一章
夕凪
慶応三年六月。 新選組の幕臣取り立てが決定した。このことにより新選組は幕府直属のお預かりになり、局長の近藤は御目見え以上という将軍拝謁が許される立場になった。
元来の将軍贔屓の近藤は喜び土方も誇らしげであったが、一方で反発も強かった。永倉や原田といった元々武家の出である者中心に不満が噴出したのだ。 武家には「忠臣は二君に仕えず」という教えがある。武家の大原則であり常識だ。武家はこれといったただ一人の人以外に仕えないという諺である。 新選組に集う武家出身者は脱藩者ばかりだが、それはどこかの藩に所属しつつ新選組で活動するのが難しいという事実と、あとはこの二君に仕えずが作用しているからである。今まで新選組は会津藩のお預かりであった。つまり雇い主である会津藩主、松平容保が新選組にとっての主君というわけになる。池田屋事変以前の新選組不遇の時から召し上げてくれた会津藩は新選組にとっては恩人同然だ。その会津藩の一組織のまま幕府のお抱えなど二重で主君を持つことになる。会津を裏切って幕府の家来になるなど以ての外という理屈だった。
結局、近藤や土方は永倉の反発を受け入れることなく、幕臣取り立ての話を承諾した。そのことで永倉たちが不満を持ってることに綾は表情を暗くした。
彼女自身も永倉に己はそれで良いのかと尋ねられた。綾は大名家、しかも新選組の主君である松平容保の養女という立場だ。当然許せないだろうということだったが、彼女はそう気にしていなかった。武家といっても女の立場で男の世界のことには疎かった上に、会津は将軍家に対して二君を許す立場を取っている。構わないというのが彼女の見解だった。 それに近藤の喜びには訳があった。幕府に認められたということは活動の幅が広がる上に給金の増幅が見込まれる。隊士達に安定を与えることが出来るのだ。貧しいと言われ続けていた新選組などもう見る影もなくなった。 合理的なところがある綾にとってもその意見は尤もだと思えた。極貧の会津藩より幕府の方が必要な経費を捻出できるだろう。土方はそこを見込んで条件を飲んだはずだった。
そんなことよりもと綾は思う。気になるのは、近藤たちと永倉や原田たちの亀裂が日に日に深まっていることである。最近では小さなことでも永倉が突っかかるようになってきた。危機的状況だと綾は危惧していた。 ただでさえ伊東派の離脱以降、幹部間の纏まりが悪化の一途だ。試衛館以来の幹部中の幹部、斎藤と平助が抜けたのは精神的な意味でも大きかった。その上永倉たちとの仲を考えると、近藤派の未来が明るいとは言えなかった。
「どうしたの」
沖田に声を掛けられて綾は我に戻った。水に浸していたはずの手拭いが体温で温まっていた。長らくぼーっと握りしめていたのだと気づき、彼女は首を振った。 本日の沖田は気分が良いらしく、珍しく半身を起こしていた。想いを通じあって以来、沖田の看病は全面的に綾が買っていた。沖田は日に日に弱まり、今では床から起き上がることなどほとんどない。一日の大半を自室で過ごしていた。
「すみません。ちょっと気が抜けたみたいです」
綾は目を伏せると木桶の中に手拭いを浸した。冷たい水が汗ばんだ肌に心地よかった。開け放した戸の向こうには青空が広がり、せっかちな蝉が鳴いていた。
彼女の横顔を目を細めて眺めた後、沖田は静かに息を吐いた。
「新八さんも左之さんも、心配はないと思うよ」
驚いて顔を上げた彼女に向かって笑みを落とした沖田は、そっと手を差し出す。骨と筋ばかりが浮かぶ青白い手のひらが優しく綾の手に重なった。
「あの人たちは離脱したりしないから。離れていくことはないから大丈夫」 「沖田、さん…」 「平助や一くんとは違うよ」
目の前の翡翠色の瞳を見つめながら、綾は軽く息を飲んだ。自分が無意識のうちに恐れていたのだと知る。永倉や原田が二人のようにいなくなってしまったら。自覚している以上に平助たちのことで堪えているのだろう。綾は沖田の手を眺めながら目を伏せる。信頼していた二人が新選組を去ったことは、それほど彼女にとって痛手だった。
「沖田さんはどう思うんですか」 「…僕?」 「幕府の傘下に入るのは、嫌ですか」 「そうだなぁ」
沖田はそっと手をまた布団の上に載せると緩く微笑んだ。庭の向こう側から子どもの笑い声と隊士たちの活気のある声が聴こえてくる。羽ばたいていく雀を目で追った後、彼は視線を綾に向けた。
「僕はただ近藤さんに着いていくよ。あの人の決定に従うだけ」 「沖田さん…」 「僕には思想も信条もない。あるとすれば近藤さんへの忠誠心だけ。それじゃ駄目かな」
柔らかな彼の表情に、綾は首を振った。沖田の考え方はいつだって一貫して揺るぎない。近藤に従うだけなのだ。
それでいいと思いますといいながらようやく微笑んだ綾の頭を、沖田は優しく撫でた。入り込んだ風は二人の髪を弄び、そのまま通り過ぎて行った。
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