五月雨 | ナノ







序章

守り刀




「これは?」


目の前に差し出された刀に、綾は思わず顔を顰めた。
派手な装飾が施されているわけでないが、鞘の艶やかさで解る。これは上物の刀だ。
綾が現在所有している刀よりも数倍、いや数十倍、数百倍は良い品だろう。
それを受け取って欲しいと、事も無げに慶福(よしとみ)は言った。


「俺から姉上に」
「私、に?」
「はい」


弾かれたように綾は顔を上げる。
目が零れそうなくらい見開かれた。
綾は女だ。それでなくとも立場の危うい。
そんな自分に良い刀をくれようとは、まさか慶福は気が狂ってしまったのか。
信じられないものを見るようにしげしげと自分を観察する姉に、慶福は苦笑した。


「なんですか」
「だって、俄かには信じがたい。このようなものを私にとは」
「お気持ちは察しますが、正真正銘姉上のための刀ですよ」


そう言って慶福は姉の手を取り、強引に刀を握らせた。
触れてみるとますます刀の価値が解る。
鞘だけで手触りが違う。職人の業の篭ったものだ。
すっ、と軽く指を滑らせた後、綾は視線を上げた。


「これは…」
「抜いてみて下さい」
「でも」
「良いから」


細められた慶福の目を見て、喉を鳴らした。
鞘に左手をかけ、ゆっくりと柄を引く。
滑るようになめらかに、その刀身が白日の下姿を現した。
息を呑んだ。
想像以上の物だ。上物中の上物。
驚いて顔を上げた姉に、慶福は穏やかに頷いた。


「お気に召していただけましたか」
「この刀…」
「南紀重国です」
「南紀、重国」


南紀重国。
紀州藩お抱えの刀工であり、紀州の名刀の銘でもある。
綾自身紀州で生まれ育っている上に、剣術を一通り嗜んでいる。
虎徹や一文字のような有名な刀ぐらい耳にしたことはあった。そして当然ながら南紀重国も知っていた。
だから余計驚いた。
しかも見れば見るほど、今手にしている刀が南紀重国の中でも更に優れたものであることも解った。
この程度のものであれば、藩内でも限られた身分、それこそ藩主や近い血縁関係者でなければ手にすることが出来ない。
完全に困惑しきった綾に、慶福は優しく笑いかけた。


「姉上のために打たせた刀なのです」
「私の、ため」
「出立に間に合うように少し急がせました」


微笑みながら慶福は、視線を刀身に移した。
その目が少し陰る。
普段から割と表情豊かで解りやすい弟ではあるが、今日は一段と滲み出ている気がする。
綾は刀身を鞘に納め、丁寧に畳みの上に置いた。


「これをどうして私に?」
「弟が姉に何かしたいと思うのは、いけないことでしょうか」
「でも、私は既にあなたの姉ではない」


そうなのだ。
だから余計に戸惑っている、と綾は思った。
確かに目の前の慶福とは血の繋がりはある。間違いない。
しかし物心ついたころには、綾は母方の実家である久松松平家に引き取られていた。
訳あって実家の慶福と触れ合う機会は多かったが、名目上姉ではない。
そして自分と慶福が双子の姉弟と知るのは、限られた者だけ。
紀州徳川家においての最高機密だ。
それを一番解っているのは、目の前の慶福であろうに。
やや呆れながら、綾は眉間に皺を寄せた。


「これを藩主が拝領する。意味を解っているのですか」
「勿論」
「家臣に刀を渡しているのですよ。しかも女に」
「解っています」
「慶福、ならば、」
「でもあなたは俺の姉です」
「だから、」
「正真正銘、あなたと俺は血の繋がった姉弟です。同腹の、姉弟なのです」


俯き加減に、だが力強く慶福は言い放った。


刀は武士の魂である。
それを主君が臣下に拝領するのは、古より格別な意味を持っている。
信頼している家臣の格別の働きを讃えて贈る、戦国の昔からよく行われていた風習である。


慶福は若年だが、決して阿呆ではない。当然刀が持つ意味を知らぬはずもない。
今まで傍にいた綾自身よく解っていた。だからそれをなお押し切る慶福の言動に眉を寄せるのだ。
紀州藩お抱えの刀工に、専用の刀を打たせる。
確かに目の前の刀は少々小柄で細身だ。女である綾に合わせたからだろう。
剣客として目の前の名刀に惹かれぬわけはない。


でもそれ以上に慶福の真意が解らないのだから、どうしようもない。
間違った考えを持っているのなら、自分は諭すべきだろう。
困惑を色濃くした綾は、慶福の瞳をじっと見つめた。


「慶福」


呼びかけに応じ、慶福は顔を上げる。
その瞳はどこまでも真っ直ぐで、真剣だった。
僅かに迷う素振りの後、やがて決意したように慶福は綾を見つめ返した。


「姉上のために何かしたかったのです」
「なぜ」
「これからは気軽に会えません。でも繋がりを消したくなかった」


綾は口を閉じた。何も言えなかった。
自分も考えなかったわけではない。これからは気軽に会うことは出来ない。むしろ生涯会えない可能性もある。
色んな立場を抜きにしても、綾は慶福が好きだった。
穏やかで思慮深く、優しくも胆の据わった弟は、綾の誇りだ。


だから十四代将軍に慶福が選ばれた時も、我が事のように喜んだ。
慶福ほど将軍の器にあう人間はいない。
手前味噌ではない。心底そう思っていたのだ。
事実、紀州藩主徳川慶福、後の徳川家茂(いえもち)は徳川歴代で一番の人格者と謳われた。平成の世まで伝わる逸話も多い。
そんな慶福が将軍になるのは、徳川家にとっては勿論、この国においても喜ばしいことだ。


だが一方で、これからは会うことどころか文を出すことすら、難しくなるだろう。
将軍として江戸城に入る。慶福は出歩くのも侭ならず、自分も紀州を離れることになっている。
しかも他の姉妹たちとは違い、自分は公にされていない立場だ。久松松平の綾、それが今の立場だった。


血筋は同じでも歩む道は違う。もう今までのようにはならない。
寂しい気持ちもある。自分だけの慶福ではなくなると、歯がゆくもある。
それはきっと一方通行ではなく、慶福もだったのだろう。
心優しい弟だ。想像していたよりも遥かに、姉のこれからを気遣っていたようだ。
申し訳なくも温かい気持ちになる。
綾はそっと微笑んだ。


「あなたと会えなくなるのは、私も寂しいですよ」
「…姉上」
「これが今生の別れになるかも知れないと。それは悲しい」
「今生の別れなど、縁起でもない。お辞めください」
「そうですね。流石に不謹慎でした」






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