第三十章
恋
慶応三年初夏。 御陵衛士結成から約一か月が経ち、隊内にも落ち着きが見られ始めた。皆、御陵衛士がなかったかのような日常を過ごす。 されど幹部に課せられた仕事量が増え、綾も一員として多忙な日々を送っていた。
「お、綾じゃねぇか」
道場の隅で一人素振りをしていた綾は、声を聞いて手を休める。正面から歩いてきたのは原田だった。その後ろには千鶴を引きつれている。二人とも巡察帰りなのか彼は羽織を着ている。幹部の中でも気心知れる人の登場に安心する。 自然と綾も笑顔になって、お疲れさまですと声を掛けた。
「お疲れさまです。今お戻りですか?」 「ああ、そうだ。そういうお前は稽古か?」 「はい。暇が出来たので、鍛錬しておりました」
頑張っているな、と原田は目を細める。その視線に綾は決まり悪そうに首を振った。こうして真っ直ぐ褒められると弱い。目を僅かに逸らして床を見つめた。 千鶴はそんな二人の様子を見て微笑む。午後の日差しが道場の隙間から差し込んでいる。 作りだされた影が三人の頬に淡く振りかかった。
「そういえば、十番組は今日は昼の巡察だったのですか?てっきり夜だと思っていたのですが」
不意に綾が尋ねた。平助が抜けて以来、綾は実質八番組を取り纏めている。幹部会に出席するようになり、他の組の動向もある程度把握するようになった。 今朝方の幹部会で確か十番組は夜分の巡察を任されていなかっただろうか。記憶違いなのかと顔を顰めた綾に、原田は苦笑を落とした。
「十番組は夜だぜ」 「…え?」 「さっきのは、一番組の分」
返答を聞いて綾は目を見開き、それからばつの悪そうな顔をした。伊東派が抜けた穴は大きく、幹部には重責が圧し掛かっている。今まで斎藤や平助を始め、他の伊東派幹部が行っていた仕事も分担している。その忙しさの中だったので、一番組の本日の動向までは把握し切れていなかったのだ。
沖田の病は悪くなる一方だ。屯所移転を機に、土方は沖田を第一線から外した。縋りつく腕を払いのけた。試衛館以来の仲間に対する冷たい仕打ちに誰も反論しなかった。沖田の病の悪化は明らかで、誰の目から見ても健康とは言えなかった。 次第に起きている時間より床についている時間の方が長くなっている。その日一日沖田の姿を見ないのも珍しくなく、むしろ姿を目撃すると驚くほどだった。
綾は千鶴と交代で沖田の部屋に食事を運ぶので、皆より少し接する機会が多い。だからこそ沖田の変貌には胸を痛めていた。 それに先日、綾は部屋の隅に、木桶が置いてあるのを見てしまった。木桶の縁には僅かな赤が付着していた。気づいた沖田が素早く隠したのでじっくりと見ることは叶わなかったが、あれはどう見ても血だったと思っている。皮肉なことに新選組に入隊して血を見る機会は多かった。血かそうでないかくらい直ぐ区別がつくし、血以外で赤色の液体があるとも思えなかった。そうでなくとも赤は希少で手に入りにくい。染色を趣味にしているとも思えぬ沖田が、赤の溶液を持っているなど、言い訳にしてもきつかった。
何の病であるのか。綾の胸の内には一つの単語が浮かんでいる。江戸三大病にして不治の病。感染力が強く、患者を最終的に死に至らしめる。 沖田がそれに罹っているとするならば。綾は何度も仮説を立てては打ち消していた。結論を導き出すのは怖かった。逃げと解っていても、認めたくなどなかった。 労咳なんて、そんなもの。
「綾」
名を呼ばれハッと顔を上げる。心配そうに顔を顰めた原田が、真っ直ぐ綾を見つめていた。隣の千鶴も同じく、だ。知らぬ間に思考の波に飲まれていたらしいと、綾は静かに苦笑した。
「すみません、何ですっけ」 「…お前、心配なんだろ」 「心配?」 「総司」
思わず目を見開いた綾を、原田は見据える。それから眉間の皺をますます濃く刻んだ。
「綾、総司が好きなんだろ」
千鶴が顔を上げる。彼女は目を丸くして原田を見た。初耳だと表情が語る。 そんな千鶴に目もくれず、原田は綾を捉えた。
「なぁ、どうなんだ」
虚を突かれた綾は一瞬顔を強張らせたが、直ぐに苦笑した。原田が気づいていることは平助から聞いて知っていた。今まで追求されなかったから驚いただけだと、彼女は思った。 それにどちらにしろ結論は同じだ。沖田の心は解らず、自分の立場に変わりもない。
「ご心配ありがとうございます、左之さん。されど私に出来ることは食事を運ぶことくらい。それ以上も以下もありません。ただ、沖田さんを案ずるのが関の山」 「だが、綾、」 「…それに私は会津の姫。大名の娘として生まれ育った恩恵を、いつかは返さねばならないかもしれません。今は目零しを受けていますが、養父上に命じられれば一度に」
強い決意に原田と千鶴は目を見張る。苦悩と諦めを浮かべた綾に、何を声掛ければ良いのか。 やがて沈黙を破ったのは、千鶴だった。
「本当にそれでいいのですか…?本当にそれで綾さんは、いいのですか?」 「いいんだよ、千鶴」
ありがとう、と囁いた綾の頬を夏の風が撫でる。 仄かに稲穂の香りを孕んだ、優しく爽やかな風だった。
顔を顰めて黙り込んだ原田の隣で、千鶴は俯いた。その瞳には迷いが浮かび、やがて決意が現れた。
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