第二十九話
岐路
慶応三年三月九日。 朝の巡察を終えた綾は着替えを済ませ、庭で千鶴の手伝いをしていた。 浅葱色の揃いの羽織が風に靡く。最近ではようやく寒さが和らいできたと、空を仰いで思った。満開の桜がひらひら風に乗って花びらを散らす。浅葱色と合わせてなんとも風流だった。
「綾さん、終わりましたか?」
話しかけられ振り返ると、籠を抱えた千鶴が立っていた。既に空になっており、彼女の後ろの物干しには大量の手拭いや褌などが掛かっている。 悴んだ手を擦り合せながら綾も足元の籠を抱えた。終わったよと言いながら中身を見せると、千鶴の顔がぱっと明るくなる。彼女の指の先は寒さのためか赤く染まっていた。
「良かった。では、少し休憩にしましょう。お茶をご用意しますね」 「ありがとう。あ、そうだ。私、金平糖持っているんだ。一緒に食べよう」 「金平糖ですか。いいですね!でも、そんな高価なものどうしたんですか?」 「昨日近藤先生にいただいたんだよ。先生もどなたかからの頂き物だったそうでね。お前は甘い物好きだからあげるよって」
その時の近藤を思い出しながら綾は微笑む。貰って直ぐに自分を思い出してくれたという、心遣いが素直に嬉しかった。
「千鶴も甘いもの好きでしょう。お茶もいいのがあるみたいだし、ね?」 「はい!」
満面の笑みを浮かべた千鶴だったが、不意に目を見開く。綾の肩越しに何かを発見したようだった。顔を顰めて綾は振り向き、そして同じように驚いた。
「沖田さん!いつから…」 「近藤さんが綾ちゃんに金平糖をくれたって件からだよ」
悪戯っぽく笑う沖田に、綾はため息をついてみせた。目敏い人だと呆れる。気配を消すのが上手いのも困りものである。しかも洗濯ものを沢山干しているため、物陰が多くて気づき辛い環境になっていた。
「それよりも起きていて大丈夫なんですか?」
千鶴が大きな瞳を潤ませて尋ねると、沖田は僅かに眉を顰める。しかし直ぐに彼は緩く笑って手を振った。
「君は本当に心配症だね。大丈夫だからこうしてふらふらしているんだよ」 「けれど…」 「それよりも、平助との稽古はどうなの?」
強引に話題を換えた沖田に、綾は一抹の不安を抱える。何故この人はこんな風に話をすり替えたのだろうか。病のことを隠したがっているのか。どうして隠さねばならないのだろうか、千鶴は何か知っているのだろうか。ちらり、と千鶴の横顔を見遣る。千鶴は唐突な話題変換に戸惑っているが、直ぐに質問に答えた。
「お暇な時に付き合って貰っています。最初の頃よりは遣えるようになりました。あ、皆さんから見れば、まだまだですが…」
顔を曇らせた千鶴に、綾は苦笑する。剣術は一朝一夕で出来るようになる訳がない。そもそも綾達は幼少の頃から鍛錬に鍛錬を重ねた剣客なのだ。そう易々と達す実力ではない。
「努力の積み重ねが大事だから、これからも平助に見てもらうといいよ。平助なら喜んで千鶴に教えるだろうしね」
優しく綾が言えば、千鶴の表情が晴れる。はい、と朗らかな返事をした彼女は、そのまま茶の支度をすると先に部屋に戻っていった。 その後ろ姿を眺めながら綾は僅かに顔を曇らせた。されど、と思ったのだ。されど千鶴との稽古の時間は削られているだろう。平助にはさほど自由な時間はない。最近では伊東派と一緒のところばかりを見るようになっていた。
「綾ちゃん」
物思いに耽っているところを話しかけられ、綾の肩が跳ねる。驚いた彼女の瞳に、困ったように笑う沖田が映り込んだ。
「あまり考えすぎないでね」 「え…」
瞠目した彼女を尻目に、沖田は踵を返すと部屋の方へ向かっていく。その背にようやく言葉の意味を理解した。きっと案じてくれているのだろう。ありがとうございます、と小さく呟いて、綾は慌てて駆けだした。
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