五月雨 | ナノ







第二十八章

秘剣




慶応三年一月。
家茂に続いて孝明天皇が崩御し、国内には激震が走った。
徳川や会津贔屓の帝の急死に容保は動揺が隠せない。和宮の兄という立場のためか、孝明天皇は薩長より幕府側を重んじていた人だった。
次代の帝にはまだ若い明治天皇が内定した。
時代の運気は一気に倒幕派へと流れを変えた。


綾は新選組入隊三度目の冬を迎えた。
太陽が高く昇った時間だというのに粉雪が舞う。軽く手のひらで払い、綾は空を仰いだ。吐く息が白く天にのぼっていく。かじかんだ指で木刀を握り直した。


斎藤に教えを請うようになって以来、綾は欠かすことなく早朝の練習をしていた。
剣術は紀州の頃から好きだったが、新選組入隊後は更に好むようになった。斎藤が師事をするようになって尚更である。鍛錬をすればするほど自分が強くなっていくのが手に取るように解って、ますますのめり込んでいた。


斎藤の教えは的確である。また男性にしては背丈がない人なので、闘いが綾と酷似している。故に綾の師範としてはこれ以上ない人だった。斎藤の助言を受け入れることが強さへの近道だった。


浅く呼吸を繰り返すと澄んだ空気が肺に流れ込む。流れるように手を動かし鯉口を切った。鞘と金属が擦れる鋭い音と共に刀身が白昼に姿を現す。日の光に煌めいた切っ先は天を仰いだ。
居合を行った状態のまま綾は静止する。微動だにせず斎藤の指摘を一つ一つ思い出しながら修正を加えていく。指の先まで神経を張り巡らせた。居合とは繊細な剣術だと綾は思っている。刃の角度一つ間違えば威力が変わるのだ。いかに正確にすべきかが課題だった。


確認を終えると刀を鞘に納めた。神経をすり減らしたせいか、額には汗が浮かんでいる。
手拭いを懐から取り出して拭いながら、綾は足元を見た。薄く積もった雪の上に自分の足跡が残っている。余程踏ん張ったのか深く残っている部分もあるが、だいたいは浅い跡だった。
斎藤の居合を思い出す。斎藤が雪の上で居合を繰り出したとして、こんなに足跡が残るものか。強い剣客は足跡など残さない。最低限の動きで最大の力を発揮するものだ。


綾は自分の手を眺める。肉刺が潰れて硬くなった皮膚は、とてもではないが女の手のひらではなかった。人一倍努力していることは自分でも解っている。しかしそれ以上に斎藤は努力を重ね業を会得したのだ。
彼のように剣を振いたいものだと綾は拳を握りしめる。先は長いが実力差を埋めるためには鍛錬しかないことも、彼女は解っていた。


「綾」


後ろから声を掛けられ綾は振り返る。さくさくと雪を踏みしめる音が二つ響いた。姿を現したのは原田と永倉だった。
二人は笑みを浮かべると大きく手を振る。そんな彼らに綾も頬を緩めた。


「こんにちは。会議が終わったのですか?」
「ああ。ま、なんていうか、しょうもねぇことだったけどよ」


永倉は頭を掻きながら言った。年末から年明けにかけて関所の検問が厳しくなっている。
天皇崩御後の情勢は悪くなる一方で、京に入る不逞浪士も増えてきていた。
その検問の依頼は新選組にも回ってきた。会津藩との合同のため綾は加わっていないが、ほとんどの隊士は検問に携わっている。


今日の会議はどうやらその話題だったらしい。元より検問に良い顔をしていなかった永倉と原田の表情は優れない。


「いたちごっこだよな。どんなに厳しく取り締まっても、入ってきちまうモンもいるしよ」
「だな。だからといってしねぇ訳にはいかねぇし、全く面倒なことだ」


同意して話を打ち切ると、そういえばと原田は向き直る。彼の視線に綾は顔を上げた。


「本当にお前は頑張るよな。努力も才能だと思わされるぜ」
「え、そんなことは…」
「謙遜するなよ。褒めているんだ」


原田は綾の頭を優しく撫でる。その横で永倉も何度も頷いた。


「お前は十分すげぇだろ。斎藤が可愛がる訳も解るってモンだ」


優れた剣客である二人に褒められれば素直に嬉しい。綾は笑みを浮かべた。
誰かに認めて欲しくて努力を続けている訳ではないが、殊に剣に関して世辞を言わぬ人に認められるのは満更でもない。


それでも油断はしてはならないと、綾は気を引き締めた。更なる精進をせねばならない。己の為、そして新選組の為。それがひいては近藤の為になることを彼女はよく解っていた。


「それよりも左之さん、新八さん。平助は一緒ではないのですか?」


恥ずかしさを誤魔化すために綾は尋ねる。だが直ぐに選択を誤ったことに気付いた。
原田と永倉の顔が曇る。苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「平助なら伊東さんに呼ばれていった。今日は伊東派の連中と過ごすんだろうよ」


永倉の言葉と共に沈黙が訪れた。平助が伊東達と過ごす時間は日に日に増している。
綾は時折平助が考え込んでいる姿を目にしていた。まだ迷っているならばよい。されど最悪なのは既に伊東を選んでいる時だった。


「あ、綾さん!」


暗い雰囲気を物色するような明るい声が聴こえた。雪を踏みしめ千鶴が歩み寄ってくる。寒いためか頬が赤くなっていた。
千鶴、と綾が呟くと、彼女は瞬きを繰り返した。口から洩れる息が白い。


「近藤さんが探していました。お話があるそうです」
「近藤先生が?」
「斎藤さんと土方さんも一緒におられました。内密に話したいことがあるそうです」


意外な組み合わせに顔を顰める。それでも三人が呼んでいるとなれば、大事に違いない。
綾は千鶴に礼を言うと、後ろ髪引かれつつも場を辞した。





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