第二十七章 万華鏡
慶応二年九月。 将軍家茂公の死が公表されると、国中に激震が走った。 長州征伐は停戦締結されることになり、たった一藩すら降伏させられなかった幕府の威信は著しく失墜した。 家茂の亡骸は江戸城に帰り、徳川宗家は一橋慶喜が相続した。 家茂の死後も綾は隊務に勤しんでいたが、魂が抜けたように覇気が無かった。 隊士達は不審がったが、それでもまさか家茂の死が原因だと言うことは出来ない。二人の関係は、家茂が死した後も極秘事項である。 このままでは隊務を遂行出来ないどころか、不用意に命を落としかねないと平助は主張する。 訴えを重く見た土方は、表向き暑気中りということにして療養を命じた。 仕事の無い綾は、土方の別邸に籠っていた。 屯所にいたままでは邪魔になるし、平隊士に姿を見られるのもあまり良いものではない。 放っておけば食事を口にしないので、千鶴と染が代わる代わる世話をしに来た。 申し訳ないと思うものの、綾の身体に力が入らなかった。 家茂の死は相当堪えていた。 実家と疎遠の彼女にとって、家茂だけが自分の“家族”だったのである。 誰よりも綾を気遣い愛してくれた人が、死んでしまった。何より綾は“家茂の為に”生きていた。 弟だけが彼女の生き甲斐でもあった。 壁に寄りかかって窓から外を眺める。 南紀重国を手放すことはなかった。今やこれだけが家茂が生きていた証だった。 抱きしめるように刀を抱え、感情の無い瞳で庭の木々を見遣る。 その眼には何も映してなかった。 「おい、綾」 見舞いに来た平助は、痛々しそうに眉を顰める。 綾が抜けたことにより一番被害を被ったのは八番組だったが、平助は一切責めたり恨み言を言ったりしなかった。 それどころか暇さえあれば様子を見に来た。 「ああ、平助?」 「ああじゃねぇだろ。さっきから呼びかけているのに」 平助が言えば、そうだったんだごめんと綾が呟く。元々はっきりした物言いをする娘の変貌に、平助は唇を噛んだ。 綾の脇には膳が置かれている。朝食にと原田が持ってきたものだったが、ほとんど手付かずで残っていた。このたったひと月程で綾は痛々しいほど痩せた。 促せば箸を手にするが口に運ぶことは稀だった。
「綾」
半分泣きそうになりながら平助は呼びかける。時折見舞いに来て呼びかけ続けねば、いつか綾が連れていかれそうな気がしていた。 家茂の死後、綾は静かにぼんやりと外を見ていることが多かった。瞳には感情がなかった。 普段感情の乏しい性格ではない。斎藤のように現れにくい訳でも、土方のようにわざと押し殺している訳でもない。笑う時は笑うし、怒りを露わにすることもある。平助ほどでないにしろ、心を許した相手にはそれなりに感情を表現する。 しかし現在、彼女にはほとんど感情がなかった。泣き喚きもせずただ静かに息をしているだけだった。それはまるで人形のようだと誰もが思った。
「少しは食べないと、体に悪いぜ」 「ねぇ、平助」 「ん?」 「ごめんね、休んで」
綾がゆっくり平助を見る。見ているはずなのに瞳には何も映っていなかった。 不意に恐ろしくなり、平助は首を左右に振る。大げさに明るく笑ってみせた。
「いいって!池田屋の頃、俺が大けがした時は世話になったしさ!気にすんなって!」 「…ありがとう」 「じゃあまた来るな!」
ひらひらと手を振った平助は、闇の空気に満ちたその部屋を出て行った。 横顔は酷く険しかった。
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