第二十六章 葵の御紋
慶応二年六月。 綾は容保に呼ばれて大坂城に向かった。 一度会津屋敷で着替え、大坂に向かう容保に付添った。 表情は限りなく固い。 今回の召し出しは急であったが、それが通ったのは、火急の用だったに他ならなかった。 徳川家茂公の病が重い。 知らせを運んだのは染であった。その染も硬い表情をしていた。 一緒に聞いた近藤と土方も目を見開く。 表向きは無関係ということになっている綾が大坂に召し出されるなど、余程のことだと解りきっていた。 護衛という名目で斎藤を遣わせたのも、彼らの思い遣りだった。 駕籠の中で綾は顔面蒼白だった。 握り締めた手のひらは既に感覚を失っている。 一言も口をきかず、早く大坂に着けば良いとそればかりを考えていた。 城内に入って控えの前で待つこと数刻。 ようやく人払いが済んだらしく、綾が呼ばれた。 遣いに来たのは勝海舟である。 綾は雪村の件で何度も対面しているが、ここまで強張った面立ちの勝を見たことがなかった。 ますます手足が震え、綾は立ちつくす。早く家茂に会いたいが、それと同時に会いたくないという気持ちも大きかった。 「蓮尚院様」 口を開いたのは、部屋の隅に控えていた斎藤である。 静かに顔を上げると、斎藤は真っすぐ綾を見据えた。 「恐れながら、公方様は姫様をお待ちのことと存じます。早く行って差し上げて下さい」 人目があるためか、斎藤の口調はいつもよりも随分堅苦しく畏まっている。 しかし声音に普段通りの優しさを感じ、綾は目を見開いた。 斎藤は深く頷いて、落とすように微笑む。 「ほら、早く」 促され、綾の身体はようやく呪縛から解き放たれた。 綾は口元を緩め、斎藤に向き合った。 「ありがとう、斎藤殿」 立ち上がって打掛を手繰る。 頭を下げて見送る斎藤と染を残し、勝と共に廊下に出た。 人払いが為されているだけあって、誰ともすれ違うことなく目的の部屋に到着した。 案内を終えた勝はそのまま外に控える。対面は姉弟二人だけということになっていた。 襖が閉めてあるというのに、既に薬の匂いがして顔を顰める。 震える手を叱りつけ、綾は一礼した。 「会津中将の娘、蓮尚院。ただいま馳せ参じました」 返事は聴こえなかったが、勝が目配せして襖を開いた。 部屋の中央には布団が敷いてあり、一人分盛り上がっている。 家茂は起き上がることすら容易ではないのだ。 息を呑み、綾は立ち上がる。 中に入った途端、勝は静かに襖を閉めた。 布団には家茂が横たわっていた。 綾の姿を目にすると、家茂は無理矢理起き上がろうとする。 それを慌てて制止し、綾は枕元に座った。 「慶福…」 「姉上、お久しゅうございます。このような姿で申し訳ありません」 「そのようなことはどうでも良いのです。それよりも…」 綾は言葉を失った。 家茂は記憶の中にある姿ではなかった。美男子と評判だった人なのに、今では老人のように頬がこけ肌が透けるように青白い。唇が紫色に変色し、目には隈が出来ていた。 素人目に見ても、明らかに健康的とは言い難かった。 家茂がゆっくりと手を伸ばす。綾が触れると、病人とは思えないほど力強く握った。 痩せ細った腕には肉が無く、枯れ木のように水気もなかった。 綾の弟で、間違いなく二十歳を少し上回ったばかりの青年。 痛々しい姿に何も言うことが出来なかった。 脚気衝心。 部屋に辿りついて直ぐに教えられた、家茂の病名。 江戸患いとも云われた重病で、高い致死率を持つ病であった。
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