第二十五話 兆候
慶応二年三月。 朝はまだ肌寒いが、吹く風が徐々に暖かくなっていた。 竹箒を片手に綾は庭掃除をしていた。 西本願寺の境内は広い。いくら隊士が増えたとはいえ平隊士や小姓だけに任せるには限界があった。 そうでなくとも松本の勧めで飼い始めた養豚の世話で忙しい。 真面目な綾は暇のある時は率先して掃除をすることにしていた。 少し離れた道場からは木刀の触れあう音と、隊士たちの掛け声が聴こえてくる。 励んでいると微笑んだ綾は、不意に視線を這わせた。 二人の人物がこちらに近づいてきていた。 一人は近藤勇、いうまでもなく綾の恩師にして新選組の局長。 そしてもう一人は伊東甲子太郎。参謀の地位に就く幹部だ。 にこやかに談笑していた伊東が先に気付く。綾は慌てて一礼した。個人的な思惑はどうあれ伊東は上役に当たる。 足音が大きくなって、二人がこちらに歩み寄ってきたのだと気付いた。 「おお、掃除をしていたのか。感心感心」 「いえ、お褒めいただくようなことではございません」 近藤が臆することなく褒めるので、綾の方が赤面してしまう。 謙遜する綾に、伊東は笑みを浮かべた。 「伍長でありながら率先して雑用を行う姿勢。本当に立派だと思うわ。私の側近たちにも見習わせなくちゃね」 「勿体ないお言葉です、伊東参謀」 綾も頬を緩ませた。 褒められようと思って掃除をしていた訳ではないが、素直に嬉しいと思った。 近藤派の大半は伊東派に敵対心を持っているし、逆に伊東派は伊東派で近藤派に対してどこか余所余所しい。 相変わらず土方は素っ気なく、沖田なんかは隠すことすらせずに嫌悪している。永倉の態度もあからさまだ。 そんな中、綾は実はさほど伊東に対して悪い気持ちを抱いている訳ではなかった。 親友の平助は伊東の弟子に当たる。そもそも近藤は伊東に好意的だ。 それに綾にとって伊東のような人間は、どちらかというと親しみがある。 武家の、それも高家で育った為に伊東の類は身近だった。このような人達を嫌えば付き合いがなくなるという程に。 だから永倉がいうように「お高くとまっている」と感じることはなく、単に受け入れていた。 無論警戒すべきなのは解っている。伊東は恐らく近藤ほど純粋な気持ちを持っていないだろう。 それでも同じ新選組として存在する限り、敵対まではしなくとも良い。綾はそう思っていた。 平助が伊東派に好意的なのも大きい。綾まで冷たくすれば、平助は近藤派で居場所を無くすだろう。格別配慮しているつもりはないが、そういう面を含むのも事実だった。 伊東は微笑みを湛えたまま、ゆっくり辺りに視線を這わせた。 「それにしても桜が見事な季節になりましたわね。昨年は何かと忙しくて外出する機会がなかったから、今年こそは見に行きたいものだわ。京の桜は格別というし」 「おや、是非とも行って下さい。見事な物ですよ」 近藤は少々意外そうに言った。既に昨年桜を鑑賞しに行ったものだと思っているようだった。 確かに伊東派の加入から一年ほどになる。風流を愛する伊東が桜を見に行っていないのは、何だかおかしな話だった。 伊東はそうですねと頷いて、そのまま綾に目を向けた。 「特に名高い嵐山に行ってみたいのよ。ほら、“春ごとに思ひやられし三吉野の”というでしょう」 あんぐり口を開けた近藤とは対照的に、綾は目を細める。 伊東に敵対心を持っていなかったが、こういったところは少々咎める部分だった。 恐らく伊東は近藤の出自を良く思っていない。悪気はないのだろうが、心のどこかで軽んじている。むしろ悪気がないからこそ性質が悪かった。 食ってかかるよりもここは近藤の顔を立てるべきだろう。綾はそっと近藤を見遣った後、伊東に微笑んでみせる。 「本当に見事ですよ。桜の花びらが敷き詰められた光景はそれは息を呑むものです。まさに“踏めば惜し踏までは行かんかたもなし”ですよ」 「あら、そうなのね。楽しみだわ」 満足そうに伊東は何度も頷いた。隣で近藤も嬉しそうに笑う。伊東の学識の高さは近藤にとって劣等感を抱かせるものだったが、唯一の救いは綾の存在だった。山南が表に出ることが叶わぬ今、近藤派随一の学を持つのは綾である。 近藤派の中では山南を除けば、他に永倉や平助が上げられる。むしろ一般的な学識であれば山南に次ぐのは永倉だろう。とはいっても二人とも風流の心がある訳ではなくどちらかといえばガサツなので、和歌や管弦の造詣はなかった。 しかし綾は大名家の娘だ。紀州時代から和歌の類は叩きこまれてきた。大名家の姫君が公家に嫁ぐことはそう珍しくない。特に和宮降嫁以後、佐幕か倒幕かで立場をはっきりしない公家に、戦略上必要とあらば嫁ぐ可能性もあった。 公家は和歌を好む。というより公家社会において和歌が詠めないというのは、常識がないと見なされる。本人が邪険にされるのは勿論、実家も軽んじられる。 紀州にしろ会津にしろ公家との付き合いがあることは明らかだったので、綾も他の大名家出身者と同様、和歌は嗜んできた。 それが功を奏し、伊東への面目が立っている。 伊東は入隊後、隊士達の教育に力を入れていた。文武師範制度を提唱したのも伊東だ。 撃剣師範、柔術師範などその道の名手が隊士達に教えた。例えば沖田や永倉は撃剣師範である。 加えて文学師範というものも設けた。隊士に学を身につけさせるのだ。 新選組は様々な階級出身者が集っている。その中で学識があるのはほんの一部で、酷い時は識字さえ出来ない者もいる。 伊東はそうした者達への教育に力を入れていた。 土方はそんな伊東を苦々しく思っている。下手に知識を身につけると余計なことを考える。政治に興味を持つようなことになれば、もしかしたら反幕の思想を持つかも知れない。 兵は愚直な方が動かしやすいという持論があるので余計だった。 余計なことをすると、近藤派のみが集まった時に愚痴を漏らしていた。 そもそも近藤派にとって出自に由来する学歴は劣等感を煽るだけだ。土方は戦略においては秀でているが、文学に明るいわけでない。そうした劣等意識を刺激されることもあって、伊東を嫌っている。 伊東も伊東で、学識のない近藤派を軽んじている部分があるだろう。それを感じとっているからこそ、綾はこうした場面で積極的に自分の知識を披露した。 近藤の側近であり、近藤の親戚筋という名目を持った綾が学識を見せれば、近藤派の矜持が保たれた。 お陰で伊東は事あるごとに綾に吹っかけてくる。 単純に何を言っても答えられるところに面白みを感じているのだろう。 これで近藤の面目が保たれるのならば、と嫌な顔をせず綾も乗ることにしていた。 「伊東さん、そろそろお時間ですぞ」 「あら、そうなのね。では雪之丞さん、また」 ひらひらと手を振りながら伊東は近藤と共に踵を返す。 その後姿に頭を下げながら、人知れず息を吐いた。
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