第二十四章 切先
慶応元年十月。 秋の色が濃くなったこの日、綾は土方の別宅で勝と面会していた。 表向きは土方の遣いという名目だが、実際は他ならぬ自分の為である。 家茂は忙しい合間を縫い、雪村家の生き残りを探していた。 まだ千鶴がそうだという証拠はない。 それでも話せば話すほど、彼女こそが雪村の娘なのではないかと思えてならない。 この日も家茂の遣いでやってきた勝は、綾の見解にしきりに頷いた。 「俺も姫様に同意だね。雪村千鶴は雪村の生き残りだろうよ」 きっぱり断言した勝は、軽く目を細めた。 そのまま手元の茶を啜る。 疲労で痩せた彼を見て、綾は胸を痛めた。 自身の弟はこれ以上に疲れているだろうと思えば、姉として思うところもある。 矜持があるだろうから決して口にしないが、案じているには変わりない。 綾にとって家茂は徳川の将軍なのでなく、未だ小さな弟のままだった。 膝の上で湯呑みを包み込むように手にしながら、綾は目を伏せた。 「千鶴の手には荒れが見られない。水仕事をしているのは直接確認済ですからね。となれば荒れないのはおかしいですし」 「普通なら、な。だが鬼の回復力ならありえるだろう。そういう一族だからサ」 江戸訛りを隠すことなく、勝は頷く。 家茂の側近にして海軍奉行という地位にありながら、庶民的なところが抜けぬ男である。 特に怪しまれぬよう敬語を止めるよう命じられてからは、訛りのこともあって余計顕著になった。 されど頭は切れる男だ。 綾は自身の見解におおよそ間違いがないことに安堵し、そして同時に落胆した。 千鶴が家茂の探す雪村の娘である、となれば、千鶴にとって徳川は仇だ。 幕府の意向だからでは済まされない。親の仇など、憎い以外の何ものでもないだろう。 自分が何と言おうと千鶴から見れば、紛れもなく徳川家の娘だ。会津も徳川系だからそれだけでも難だろうに、ましてや実家のことを知れば余計にそう思うはずだ。 袴の裾を握り締め唇を噛む。 千鶴は綾の初めての女友達である。器量が良く優しい千鶴がとても好きだ。 平助には妬けるほど仲がいいと軽口を叩かれた程だし、屯所にいる際に時を共に過ごす機会はとても多い。 その千鶴の家族を奪ったのは、自分の実家なのかも知れない。 重い事実は胸を突き刺した。 千鶴に憎むような眼で見られでもしたら。 想像するだけで、足が竦むようだと綾は思った。 しかもそれは、有り得ないことでない。むしろ千鶴が雪村の娘と確定したならば、そして幼少の記憶を取り戻したのならば、当然のことだ。 「…姫様、そういう顔は止しなせぇ。今とやかく考えたところで、どうにかなるモンじゃあるめぇし」 勝が困ったように眉を寄せる。 その瞳は、自身より一回り以上若い娘を案じる兄のようであった。 家茂に対して絶対の忠誠を誓っている勝は、綾に対する接し方が他の者より丁寧である。 親しみを籠めた視線で見遣り、それからゆっくり湯呑みを置いた。 「姫様が今まで雪村の娘と良好な関係を築いているなら、そう悪い方には行かねぇサ。しかも雪村の件の時、姫様はまだ幼子だったんだ。止められるはずもねぇって、普通解る」 「でも…。それでも千鶴にとって、私は…」 「…確かに今までのようにはなんねぇだろな。正直難しい。けど、姫様が思ってるより悪くねぇと思うぜ」 綾は左に置いた刀に目を向けた。南紀重国。葵紋の入った、家茂拝領の刀だ。 徳川に生まれたのを誇りと思ったことはない。辛酸を舐めさせられてばかりだった。 恩恵どころか迷惑をかけられている。 「勝」 はい、と勝は返事をする。 暗くなった綾の瞳を、真っすぐ見返した。 「なんですか、姫様」 「上様は、…慶福は、いつもこんな想いばかりしているのですか?」 徳川の当主にあって向けられるのは尊敬や敬愛の念ばかりではない。特に今は徳川の栄華とは言い難い情勢だ。 たくさんの恨みや嫉みが家茂に向けられているのだろう。 それはどんなに苦しいことか、辛いことか。 裏切りも怒りも、全て一身に引き受けているのだ。 真面目で優しい家茂にはどんなに負担だろう。 想像したくない、と綾は俯く。想像であっても辛い。 今は余計そう思った。この何十倍も、家茂は苦しんでいるはずだ。 「上様は何分お優し過ぎる。人の上に立つ方には必要なことだろうが…、あの御方は度を超えて気遣い過ぎる」 それが良いところなんだが、と勝は眉を下げた。 平時の将軍であればどんなに良かっただろう。誰もに慕われる素晴らしい将軍だったはずだ。 何故、このような時にならなくてはならなかったのか。二人とも口惜しかった。こんな時でさえなければ、三代ほど前の時であれば良かったのに。 俯いていた勝は、不意に顔を上げる。 されど、と口火を切って、軽く微笑んだ。 「上様には宮様がおられるから、姫様が案じていらっしゃるほどはねぇと思うぜ」 「宮様が、おられる?」 「ああ」 目を見開いて問いかけた綾に、勝は力強く頷いてみせた。 「あの二人は本当に仲睦まじくあられるからな。上様の心の支えは、和宮様なんだろうよ」 「和宮様が、上様を支えていらっしゃるのですか…」 「勿論逆も然り。一度姫様にも見せてあげたいね。二人の微笑ましい様子」 勝の柔らかい口調で、綾は察する。 以前家茂の口から聞いて知っていたが、周りがここまで言うのだ。恐らく自分の想像以上なんだろう。 寂しい気もするが良かったと、安堵する。自分のことを想ってくれる人がいるということは、強みになる。 表情を和らげた綾に勝は笑みを落とした。 「それで姫様は、良い人はいねぇのかい?」 「…え?」 不意を突かれて、鳩が豆鉄砲食らったような顔をする。 勝はそんな彼女に悪戯っぽく笑った。 「お、その様子じゃ好いた男がいるようだね。姫様は別嬪さんだし、腐らせとくには勿体ねぇからな」 「そんな、まさか、」 「隠さなくてもいいぜ。姫様にも心の支えは必要さ。自分の絶対の味方でいてくれる人、これさえいれば、強くなれる」 戸惑う綾に言い聞かせると、勝は立ちあがった。 窓の外の日差しは真上から徐々に落ち始めていた。 話しこんでいるうちにすっかり時間が経っていた。 「上様は姫様には自由に生きて欲しいと思っているようだ。アンタが弟君を案じているように、あの御方も姉君を案じていらっしゃるのサ」 では御免、と勝は頭を下げると退室した。 閉まった襖をぼんやり見ながら、綾は息を吐いた。 大名の娘として生まれた以上、宿命は受け入れている。諦めている、といった方がしっくりくるか。 とにかく綾は全てを放り出す気はなかった。 それでも許されるだろうか。 目を伏せた後、窓の外に視線を向けて考える。 心の中で沖田を想うことくらい、許して欲しい。 小さな恋心を大切に守ることだけは、どうか見逃して欲しいと、綾は溜め息をついた。
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