五月雨 | ナノ








第二十三章

陽炎(かげろう)




慶応元年閏五月。
近藤は先だっての二条城警備の際知り合った幕医、松本良順を屯所に連れてきた。
大奥での診療を任されるほど身分の高い医師であるが、元来江戸っ子で気前がいい。
近藤とすっかり意気投合し、新選組の健康診断を申し出てくれた。


隊をあげての健康診断の最中、綾は一人自室で書を読んでいた。
綾と千鶴の二人は、女の身の上が露見せぬよう言い渡されている。
そうなれば堂々と剣術稽古など出来るはずもなく、仕方なく自室で書見するしかなかった。


斎藤に借りた剣術書は確かに興味深く、実になる話ばかりだ。だが綾は自然と息を吐いて窓の外を見た。
こんなにも静かなひと時は久方ぶりである。いつも誰かの傍におり、賑やかさに囲まれていた。
昔はこうして書見するのも好きだったはずなのに、今は何だか物足りない。
賑やかな笑い声を聴いて、人知れず目を伏せた。


暫くそうしていると、廊下の向こう側から足音が聴こえてきた。二つ、二人分である。
姿勢を崩さず待機していれば、窓の向こうにやがて近藤と松本が姿を現した。
近藤は満面の笑みを浮かべている。


「入るぞ」
「あ、はい、どうぞ」


綾は上座を退いて、二人の為に座布団を用意する。
すまぬな、と言いながら近藤が座れば、松本も戸惑いつつ倣った。


「いやぁ、待たせたな、雪之丞。お前も今から検診だ」
「俺もですか?」
「ああ」


近藤は笑んだまま頷き、松本に視線を移した。


「松本先生は全てご存じだ。案ずるでない」
「ご存じ、と言いますと?」


眉を軽く顰め、綾は松本に目を遣る。
綾の場合秘密が二重三重とある。軽々しく口にが出来ない。
そんな彼女の心情を読み解いたのか、松本は目を細め強く頷いた。


「あなた様の事情は上様から聞き及んでおります、綾姫様」
「左様ですか」


僅かに頬を緩め、綾もようやく緊張を解いた。
家茂から訊いているとなれば、事情を全て知っているということだ。すなわち性別が女であるどころか、会津の姫であり、更に家茂公の姉に当たる血筋であるということも。


「上様からとは、あなたは大層信頼されておいでなのですね」
「一応これでも医師であり、幕臣ですからな。いやぁ、上様にこの件賜った際には飛び上がって驚いたものです」
「さもありなん、ですね」


苦笑して頷く。
見るからに豪気な医師ではあるが、流石に幕府最大の秘密には腰を抜かしたらしい。
異様といえば異様な話だから仕方ない。
将軍に双子の姉が男装して浪士に混じっているなど、あまりにも飛んだ話だ。


「では、松本先生。私、いえ、俺からお願いがあります」
「はい、なんでしょう」
「その敬語、やめませんか?他の隊士達には気さくに接していらしたと訊きました。屯所にいる限り、俺は“近藤雪之丞”です。近藤局長の親戚筋で、八番組の伍長を任されたただの若輩者の浪士ですよ」


綾の言葉に松本は瞬きを繰り返す。意外な物を見たように目を見開くが、やがて豪快に笑った。
足を崩しながら彼は膝を叩く。目尻には涙が浮かんだ。


「噂に聞いてはいたが、何とも凄まじい方だ」
「それは、お褒めの言葉でしょうか」
「褒めてるさ。普通の姫君じゃそうはいかねぇだろう。大奥の女中にしてもそうさ。ま、尤も、普通の姫君では男装して新選組に入ろうなんていう発想は湧かねぇだろうけどな」


大声で笑い飛ばし、松本は瞼を擦る。
あまりの豪快さに綾も思わず釣られて相好を崩した。
気持ちの良い程笑う人だ。すっかり気を許したくなる雰囲気を持っている。
確かに家茂が信頼するのも解る気がした。


暫く笑った後、松本はパン、と膝を叩いた。


「そんじゃ、雪之丞さんの診察を始めるか。これは上様に念入りに頼まれているしな」
「上様が、ですか」
「中々医者に診せるのが容易にならない人だから、この際調べてやれってな」
「おお、そうだ、雪之丞。入念にして貰いなさい」


近藤も同意する。
綾の男装は新選組においても当然、羅刹に並ぶ最高機密だ。故に綾は常に細心の注意を払うことを余儀なくされている。
町医者にかかるなど以ての外だ。どこから秘密が漏れだすか解らない。
家茂はそれを重々承知していたので、松本が新選組に行くことを訊きつけ、姉の検診も申しつけたのだ。


長州征伐を控え忙しい時なのに、相変わらず優しい子だ。綾は目元を緩ませる。
好意に甘え診察をしていただこう。
そう思った綾は、僅かに戸惑い近藤を見遣る。
検診をするには服を脱がねばならないというのに、一向に出ていく気配がない。


近藤は余程家茂の計らいに感動したのか、何度も何度も頷いている。
悪気はないのだろうが。綾は困惑して松本に視線を移した。


松本も苦笑しつつ、おもむろに近藤の肩を叩く。そこでようやく近藤は、二人が自分に目を向けていると知った。


「ん?どうしたのかね?」
「どうしたじゃないだろ、近藤さん。今から雪之丞さんの検診なんだぜ」
「ああ、そうだな」
「そうだな、じゃなくてな。この子、こんな成りではあるが、歴とした娘だぞ」


呆れ混じりの松本の声に、さっと近藤は表情に朱を走らせる。
遅まきながら、自分の不備に気付いたらしい。
慌てて立ち上がると、綾に向かって手を合わせた。


「すまぬ!不覚であった!」
「解っておりますから、お気になさらないで下さい、近藤先生。それよりもこの度の計らい、有難う存じます」
「あ、ああ。では俺は席を外す。松本先生、頼みます」
「心得ました」


足早に部屋を出た近藤を、二人は笑って見送った。
襖を閉めれば静寂が訪れる。
さて、と松本は膝を進めた。


「検診を始めるか」
「よろしくお願いします」


頷いて、綾は袂に手を掛けた。





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