五月雨 | ナノ







第十九章

明ける里




元治二年二月。
もうすぐ三月だというのに、寒さは緩和される様子もない。


羽織に載った雪を払い、綾は屯所の中に入った。
午前中の巡察は凍える。早く火鉢に当たりたい。
かじかんだ指先に息を吹きかけ、早足で自室を目指した。


「あっ、雪之丞くん」


廊下を曲がったところで、ちょうど縁側に腰掛ける沖田に遭遇した。
沖田は珍しく非番らしく、平服姿のままである。
こんなに寒いのに縁側で何をしているのだろう。
綾が首を傾げると、沖田は手招きをした。


沖田の手元には薄い本がある。
膝の上で開かれたその冊子は、丁寧で几帳面な文字が並んでいる。


「何を読んでいるのですか?」
「ああ、これ?」


尋ねられた沖田は、含み笑いをしながら綾に手渡した。
受け取り覗きこんで、瞬きを繰り返す。
そこに記されていたのは俳句だった。


「春の草五色までは覚えけり」


後ろから覗きこんだ沖田が音読する。
全て暗記しているらしく、ほとんど紙面を見ていない。


「公用に出てゆくみちや春の月、しれば迷ひしなければ迷はぬ恋の道」
「なんですか、これ?」


初めて見た、と綾は顔を顰めた。
いくら隠されて育てられたと言っても、乳母や染は綾に最小限の教養を、と身につけさせた。
それどころか影武者だったため、普通ならば女性は学ばない程の事まで学習した。
和歌や俳句は必須である。また四書五経や朱子学も身につけた。
賢く漢詩が得意だった弟程でなくても、どこに出ても恥をかかぬほど会得している。


だからこそ見覚えのない句に、戸惑いを覚えたのだ。
聞いたことがない。当代の流行りなのだろうか。
困惑する綾に、沖田は喉を鳴らすように笑った。


「豊玉宗匠の句だよ。豊玉発句集っていうんだ」
「豊玉発句集、ですか。今の流行りなんですか?」
「そうだね。少なくとも僕の間では大流行」


軽い口調で言い放った沖田は、再び空で句を読み上げる。
随分読みこんだらしく、一文字たりとも間違っていない。


それにしても、句集どころか作者すら見覚えがないとはいかがなものだろうと、綾は眉間に皺を寄せた。
非番の際には貸本屋に行くこともある。流行はそこで聞きかじることが多い。
生真面目に豊玉の名前を頭に刻む綾を見て、沖田はますます笑みを漏らした。


その時、ドスドスと床板を踏み鳴らす音がして、二人は顔を見合わせる。
足音は一人分。徐々に近づいてきている。酷く怒りの籠った音だ。
あっ、と思った時には、廊下の向こうから彼が姿を現していた。


「総司!」


憤怒の形相を浮かべた土方が、大声で怒鳴る。
綾は驚いて視線を移すと、沖田は既に走り始めていた。


「どうしたんですか、土方さん」
「どうしたもこうしたもねぇよ!例の物を返せ!」
「例の物って何ですか?」
「とぼけるな!例の物と言ったら例の物だ!」
「えぇ?はっきり言って貰わないと解んないなぁ」
「くっ…」


一瞬言葉に詰まった土方は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
躊躇いの色を這わせ、やがて開き直った。


「句集だよ!俺の句集を返しやがれ!」
「あはは!」


盛大な笑い声を、土方は怒り心頭で追いかける。
あっという間に姿が消えた二人を、綾は呆然と見送った。


もしかしてあの句集は、豊玉宗匠というのは。
既に姿は見えないというのに、土方の盛大な怒鳴り声だけが聴こえてくる。
不意に綾が視線を落とすと、先ほどまで沖田が座っていた所に句集があった。
冷静な土方に珍しく、足元の句集を見逃していたらしい。
恐る恐る手にし、綾はそのうちの壱頁をめくってみた。


「あっ」


水の北山の南や春の月


達筆に書かれた一つの句に目がとまる。
美しい田舎町の情景と、それを愛する読み手の気持ちが伝わってくる。
素朴ながら良い句であると、綾は笑みを漏らす。


それともう一つ。


「山の南…」


屯所移転の件から、土方と山南が不仲であるという噂が隊内に流れていた。
あくまで強引に自分の考えを推し進める土方と、和を持って尊しとなす山南。
元々腕の怪我以来山南はふさぎがちなのに、更に近頃では酷くなっている。
あれ程島原に同行した沖田や綾ですら、顔を合わせない日の方が多くなってきた。
土方と山南が会話している姿など、ひと月以上目にしていない。
同じ近藤一派ながら、二人の間には亀裂が入ったかのように見えた。


「山の南や、春の月」


ゆっくり口の中で繰り返し、綾は目を細める。
周りがどうであれ、二人の結束は固いのであろう。
土方は本当に不器用な男である。
仕方ないな、と笑みを漏らし、句集を手に綾は怒鳴り声の方向へと歩き始めた。





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