第十八章 市松模様
元治二年一月。 年が明けて数日のこの日、白銀の雪を眺めながらまた一日が始まった。 綾は振るっていた木刀を下すと、手拭で汗を拭く。 朝の自主稽古はもう一年程前からの日課となっていた。 いつもは斎藤が付き合ってくれるが、本日は早朝から幹部会があるとのことでいない。 先日教えて貰ったばかりの技を習得しようと、綾は型の練習をしている。 しかしどうも足が絡まり、上手く運ぶことが出来ずに顔を顰めた。 若い頃に武者修行で色んな流派の技を身につけた斎藤は、培った剣技を惜しみもなく綾に伝授した。 その実力は折り紙つきなのに、右差しということで斎藤には際立った弟子はいない。 普段剣術師範として道場で教える際にも、基礎しか教えずに後は簡単な柔術を指南していた。 右差しに剣術を習うは恥と考える人間は少なくない。 無論斎藤の腕前は誰もが認めるところだったが、指南を請うとなるとやはり沖田や永倉などの他の熟練者に流れてしまう。 鋭い斎藤は状況を即座に察し、一歩引いたところから指導をしていた。 対して綾は右差しに特に拘りはなかった。 元々道場に出入りして正式な指南を受けた訳ではない。ただ、影武者として弟を守るための剣術を授けられた。 それに彼女自身、男女の双子ということで、幼少からいわれなき差別を受け続けた。 だから綾は、本人にはどうしようもないことで差別をすることが、非常に不快で嫌いであったし、差別される斎藤の気持ちは痛いほど解った。 自分の教えを素直に受け、師と仰ぐ綾を、斎藤は心底可愛がっている。 斎藤は自分の持つ全てを授けても良いと思っていた。 しかも綾は剣の才に恵まれている。 女でなければどれほど優秀な剣豪になれただろうというほど、勘が良かった。 弊害になっているのは力である。 筋力の男女差だけはどうしても埋まらず、その為に限界がある。 斎藤は綾に筋力差を物ともしないよう、出来る限り技を身につけさせた。 もとより斎藤自身男性にしては小柄である。そういった方面の技には通じていたのだ。 息を吸い、木刀を構える。 斎藤に言われたことを思い出しながら、一つ一つ追っていく。 だがやはり納得出来ないと、綾は首を傾げた。 「違うわ。少し肩を入れて左足を引くの。雪之丞さんは全体的に前に力を掛け過ぎてるのよ」 唐突に声が聴こえ驚いて振り返ると、縁側に伊東が立っていた。 幹部会はとっくに終わって、その帰り道なのだろうか。 それにしても綾は伊東と特に親しくない。 廊下で会えば挨拶するが、言ってみればそれ以外に共通点はなかった。 だから声を掛けられたことが意外で、綾は瞬きを繰り返し、思わず伊東を凝視した。 驚く綾を、伊東は手招きで呼ぶ。 近寄ると木刀を寄越すように言うので、言うとおりに渡した。 伊東はそれを少し眺め、それから八双に構える。 そして彼は緩やかに木刀を振った。 剣先が空に円を描く。一刀流の円流である。 攻撃ではなく防御の技で、相手の力を利用し受け流す。 綾は目を見張った。 伊東はまるで舞でも舞うかのように、優雅に技を披露する。 一見すると公家か、商家の若旦那のような成りであるのに、流石は北辰一刀流の道場主とだけあって伊東は軽々とそれをお披露目した。 木刀を下げ綾に返しながら、伊東は優しく微笑んだ。 「円流を覚えるのは良いことだわ。失礼だけど、雪之丞さんは小柄だし普通の人よりも力が弱いでしょうから。これを指南したのは誰?」 「斎藤さんです。いつも斎藤さんに見て貰っているので…」 「そう、斎藤くん」 少し思案するように伊東は首を傾げたが、直ぐに彼は頷いた。 「彼は随分多くの流派の技を知っていると聞いたけれど、本当のようね」 「斎藤さんは、素晴らしい剣豪ですから」 綾はやや力を籠めて返答した。 斎藤が右差しなのは伊東も知る所だろう。だからなお、師を見下げられてはいけないと思った。 そんな綾の思惑を見越したのか、伊東はただそうね、と言った。 「それよりも雪之丞さん、あなたも大した腕前をお持ちね。交流試合の時は見事だったわ」 「あ、はい。ありがとうございます」 伊東の実弟に勝った綾は少々複雑な気持ちで頷いたが、伊東は大して気に留めていないようだ。 気にした様子もなく、穏やかに微笑む。 「藤堂のいない間、隊をよろしくね」 「はい」 「ではね」 さっと伊東は踵を返し、やがて屋敷の中に消えていった。 それを見送りながら綾は溜め息をついた。 伊東参謀は決して悪い人ではないのだろう。 むしろ人としては良くできた方だ。あれだけの人間が慕うのも解る。 それだけに綾は複雑な想いで空を仰ぐ。 冬の僅かに灰色がかった空は、太陽の暖かい光を地上に注いでいた。
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