禿に連れられ楓の間まで行くと、ちょうど襖が開いて沖田が出てきた。 沖田は綾の姿を見て意外そうな顔をしたが、何か勘付いたのか意地の悪い笑みを浮かべた。
「まさか迷子?」 「……」 「だよね。君もごめんね、こんな大の大人の案内なんかさせて」
沖田は膝を曲げ禿に目線を合わせると、彼女の頭を撫でた。 まだ九つほどの禿は小さく首を何度も振る。照れたのか結い上げた髪の隙間から見える耳が真っ赤になっていた。
「うちも何度も迷ったことありますよって。それに君菊はん姉さんの言い付けやさかい、かまへんどす」
まだ幼いのに少女は綺麗な京弁だった。 島原は貧しい農村の娘が多いため、生まれつき京弁を話す人は少ない。 廓言葉は遊女の出身を誤魔化すために生まれたという説もある。 少女は京に近い場所の出身なんだろう。 沖田はもう一度、今度は優しく禿の頭を撫でる。
「良い子だね。君、立派な天神になれるよ」 「ほんまどすか?」 「うん、なれる」
目を輝かせた禿の手に、懐紙に包んだ金平糖を渡すと、沖田はお礼だよと微笑む。綾も重ねて礼を言った。 禿は嬉しそうに金平糖を懐に入れ一礼し、弾けるようにもと来た道に戻っていった。
禿の姿が見えなくなっても、沖田は腕を組んだまま消えた方を眺めている。 眉を寄せて彼を見ると、沖田は緩やかに息を吐いた。
「あの子、いつからここにいるんだろうね」 「…いつなんでしょうね」 「僕が近藤さんの道場に預けられたのは、九つの時だったよ」
突然話し始めた沖田に驚いて、綾は目を丸くする。 そんな綾に見向きもせず、沖田は遠くを見るように目を細めた。
「僕は武士の家に生まれたけど実家は貧しくて、その上物心つく前に両親を亡くしたから、長男だというのに跡取りじゃなかった。一番上の姉が婿を取ったから、僕は実質用無しになってしまった。そこで口減らしの意味も込めて近藤さんの道場に内弟子として預けられたんだよ」
武士の家に欲しいのは家柄に関わらず、一人の男子に多くの娘だった。 長男は家督相続に必要でお家を守って貰わなければならない。娘達は他家に嫁がせ、より多くの家と親戚関係を結んでおくのが良いとされていた。 だから武家の次男以降は大抵は男子が生まれなかった他家に婿や養子に入るか、剣術を極め道場を開いたり学問に進み学者になるくらいしか道はなく、大変肩身の狭い思いをした。 沖田は長男ではあったが跡取りではない。故に次男と同列だった。 それで沖田家は幼い総司を道場に預けたのだ。
「実家の姉達、特に一番上のおミツ姉さんは僕を可愛がってくれて良く道場まで様子を見にきてくれたけど、それでも寂しかった。当時は家族に捨てられた気がしていたし、道場でも良い待遇を受けていた訳じゃないからね」
それは意外な過去だった。 捻くれているが、沖田は背後に暗い物を背負っているような印象はない。 好き勝手自由奔放で上手に我侭を言うところなんて、可愛がられて育ったように見える。 人は腹の底に何を抱いているのか解らないものだ。
沖田の睫毛が伏せられて、瞳に淡い影を落とす。
「あの子を見てそういった感情を思い出したよ」
零すように苦笑すると、ようやく沖田は綾に顔を向けた。 幼くして家族と別れ働く禿が、幼少の頃の自分に重なったのだろう。 綾は何とも言えずにただ眉を寄せた。 自分は親を知らないが、十三までは家茂の傍にいた。 肉親と一緒にいられたのは、もしかしたら贅沢なことかも知れない。 綾は自分を不幸だと思ったことはないが、それでも沖田の話に衝撃を受けていた。
「それで、近藤先生を慕っているのですね」
思ったままに呟けば、沖田は瞬きを繰り返す。 しかしすぐに彼はそうだね、と頷いた。
「当時は散々迷惑をかけたものだけど、近藤さんは嫌な顔一つしなかった。いつも笑って傍にいてくれたよ」 「近藤先生、らしいですね」 「うん。あの人は昔から変わらない。あの人は昔から、ずっと温かい人だよ」
沖田の口調が優しいのは、恐らく近藤のことを話しているからだ。 それは解っているのに綾の心臓は音を立てる。 何だか気恥ずかしくて誤魔化す為に前髪に触れ、視線を逸らした。 そんな綾に笑みを落とし、沖田は襖に手を載せた。
「そろそろ戻らなくちゃいけないね」 「沖田さん」 「うん?」
襖を開けようとした沖田は、首だけ振りかえる。 一瞬視線を爪先に向け、それから綾は真っすぐ見据えた。
「どうして私に話してくれたんですか?」
声が廊下に響く。 襖越しに軽やかな笑い声が聴こえるが、それは実際よりも遠くから聴こえる気がした。 沖田はゆっくりと襖から手を離し、首を傾げる。 まるで彼自身戸惑っているかのように不思議そうな表情を浮かべていた。
「そういえば、何でだろうね」
静かに彼は呟く。 翡翠の瞳は答えを探すように綾をじっと見つめた。 不意に綾の身体は熱くなる。 自然と潤む瞳に困惑した。 逸らしたい気もするのに、何故だか目を逸らせない。 それは生まれてこの方、知ることのなかった感情だった。
沈黙がどれほど続いたのであろう。 長いようにも、ひとときにも思えるほど見つめあっていた。
「君に、知って欲しくなった」
それだけだよ、と沖田は囁く。 口元を緩めると今度こそ襖を開けて、先に中に入って行った。
その背を眺めながら綾は胸の前で手を握り締める。 煩い程波打つ心臓を抑え、彼女もまた後に続いた。
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