山南、原田も加え角屋の座敷に到着すると、間もなく膳が運ばれた。 先日より簡素であるが、そうはいっても常時口にするものよりも豪華だ。 品のある京料理の味を堪能していると、原田が手配した遊女はあまり待つことなくやってきた。 天神一人に芸妓が二人。天神は先日山南の相手をした明里である。 山南と明里の相性が良いのをみて指名したようだった。
芸妓の一人が三味線を、もう一人が鼓を持ち明里が舞う。 長唄と共に明里の簪が揺れた。 指先まで洗練されて美しい。綾は目を見開いて食い入るように舞を見た。
その後は明里が山南の隣に座ったのを合図に各々杯を手にする。 少し酒が回った綾は酔い覚ましに席を立った。
廊下に出ると、他の部屋から漏れる笑い声が響いている。 足早に歩けば、磨かれた廊下の冷たさが緩和される。 手水へ向かおうとした綾の耳に、細い悲鳴が飛び込んできた。
咄嗟に綾は声の方へ駆ける。いつもの癖で半ば無意識だった。 入り組んだ廊下の端に一人の天神を囲む浪士達の姿がある。 浪士は皆酔っているようで顔が赤い。 天神の細い腕を掴んでにたにた嫌な笑みを浮かべている。 一目で状況を理解する。嫌がる天神を浪士がどこかに引きずりこもうとしているのだろう。 綾は顔を顰めると、彼らに歩み寄った。
「何をしているのですか。嫌がっているではないですか」 「なんだ、お前。人のお楽しみのところを」
浪士たちは不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。 近くに寄れば解った。酒臭い。 綾は浪士たちの睨みには全く怯まなかった。
「嫌がる女性を連れ回すなんて感心出来ません」 「小僧、勤皇の攘夷志士様に逆らうのかぁ?俺達は天子様の為に京にいるんだぞ」 「天子様があなた方のような人をお認めになってるとは思えません。それが武士の所業ですか」 「何だと!」
浪士たちはいきり立って一斉に綾に向かう。 腰に手を当てるが、刀はない。 島原では客室に上がる前、刀は店に預けるのが礼儀だ。 一瞬焦りを浮かべた浪士だったが、すぐに相手が綾一人であることを思い出して腕まくりをした。
飛んできた拳を綾は身体を捻って避ける。 振り向きざまに浪士の腕を掴み、力いっぱい捻り上げた。 悲鳴をあげて手を抑えた浪士を突き放し、向かってきた二人目の腕に手刀を落とす。 その脇をくぐり抜け三人目には顔面に蹴りを入れ、四人目の拳を避けて腹を蹴った。
小柄な綾の素早さに誰もついていけない。 まるで牛若丸のように身軽に避け、浪士に攻撃を入れる。 毎日斎藤に柔術を叩きこまれたお陰で、綾は随分刀なしでもそれなりに闘えるようになったのだ。 その上相手は泥酔状態、となると攻撃が一方的になるのはやむを得なかった。 浪士たちの注意が逸れたのを確認し、綾は天神の腕を掴む。 こっちだ、と短く言い、そのまま二人で走って逃げた。
角を曲がって別の廊下に出ると、ちょうど向こうの方から小柄な女がやってきた。 彼女は遊女の恰好ではなく、山吹色の一般的な着物姿だ。
「君菊!」 「お千様…!」
天神の名前は君菊というらしい。 恐らくこの二人は主従なのだろうと、綾は思った。 千という娘は戻って来ない君菊を探し回っていたらしい。 君菊が事情を話せば、千は驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔になった。
「助けてくれてありがとう!あなた、とても勇敢なのね!」 「いえ、大したことではありませんので」 「大したことよ!大勢に立ち向かうのって、凄く勇気がいることだわ。本当にありがとう」
声を弾ませた千は、そのまま綾の手を取ると包み込むように握った。 千と君菊に何度も礼を言われ、流石に照れ臭かった。 満面の笑みを浮かべる二人に綾も釣られて笑顔になった。
何か礼を、という千に遠慮する。 そういう目的で飛び出した訳ではなかった。ただ、身体が反射的に動いていたのだ。 無鉄砲だと事が済んだから思う。 上手くいったので良かったものの、失敗すれば自分だけでなく君菊にも被害が及んだ。 軽率だった、としか言えなかった。
「本当によろしいですよ。ご無事で何よりでした」 「ほんまにおおきにどしたなぁ」
君菊はしなやかに礼をする。 細かい仕草の隅々まで色気と品のある女性だ。 遊女といっても様々だが、流石島原の天神は別格である。 君菊にしろ明里にしろ、どこか常人と違っていた。
感心していた綾は、ハッと顔を強張らせる。 肝心なことに気付いたのだ。
「君菊さん、楓の間はどのように行けばよいですか?」 「え?」 「その、帰り道、解らなくて」
恥を忍んで尋ねた。 あの場から逃げることしか考えておらず、無我夢中で逃げた為現在地がどこなのか解らない。 建物は全て同じような襖で、同じような廊下が張り巡らされている。 とてもじゃないが目安はなかった。
君菊も事情を察したのか静かに微笑むと、案内の禿を一人呼んでくれた。
「楓の間というと、もしや明里のお客はんではおまへんどすか?」 「ああ、はい。そうです」 「やはり。ということは新選組の方なのどすな」
綾は一瞬だけ驚いたが、直ぐに原田が馴染みなのを思い出した。 原田は永倉と共に暇さえあれば島原に訪れている。 その関係で顔見知りになった遊女も多いだろうし、明里を呼ぶ際にもしかしたら名乗っているのかも知れない。 そうですよ、と言いながら綾は頷いた。
「近藤雪之丞と申します」 「近藤はん、どすか。あたしは君菊とええます。こちらは主家筋のお嬢はんどす」 「千です。よろしくね」 「ご丁寧にありがとうございます。では、機会があればまた」 「是非に」 「またね!」
笑顔で手を振る二人に踵を返し、綾は禿の後ろを歩く。 長い廊下は冷えていて心地よい。 何故だか晴れやかな気持ちを抱え、足取りは軽かった。
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