「あのそれで失礼ですが、あなた様は…?」
少し困惑の色を載せた言葉に、ハッと我に返った。 自分が名乗りを上げていないことに気づく。 いくら自分が格上に当たるといっても失礼である。 慌てて立ち上がると、綾は真っ直ぐ近藤を見据えた。
「失礼致しました。綾と申します」 「…は?綾、殿?」 「?」
近藤はますます戸惑ったように綾を見つめた。 いったいどういうことだろう。 訝しげな近藤の視線を追う。 そこでようやく顔を青くした。 自分が男装しているところだったのに気づいたのである。
綾は剣術の稽古や街へお忍びで出かける時など、男装をするようにしている。 姫の恰好のままでは見咎められるし、街では命の危険に晒される。 容保はあまり良く思っていないから、彼がいないところではあるが。 元々幼少から剣術を嗜んでいたし、諸事情で男装を強いられることが多かった綾はこちらの恰好を好んでいた。 今もこの後京の街へ行くつもりだったため、例に漏れず男装姿なのである。 腰にはご丁寧に得物まである、となれば綾のことを女だと見抜く方が稀であろう。顔立ち自体も中性的、身の丈も男性にしては小柄程度なのだから余計に。
「名は松平雪之丞。綾という呼び名でまかり通っております」 「あ、ああ。そうでしたか」
自分でも苦しいと思う誤魔化し方であったのに、近藤はあっさり信じたらしい。 晴れ晴れとした表情で頷いたのを見て、綾は密かに胸を撫で下ろした。
雪之丞というのは綾の男装した時の名である。 主に京へお忍びで出かける際に使用している。 故に呼ばれなれていたし、綾自身中々気に入っている名前だった。
「松平姓というと、よもや容保様の血縁の方ですか?」 「そうですが、姻戚関係といいますか…。宗家とは違います。家臣筋です」 「ああ、そうなんですね」
近藤は納得したように頷いた。 人をよく信用する性分らしい。 壬生浪士組がどのような組織なのかは知らないが、長がこの調子で大丈夫なのだろうか。 他人事ながら、綾は少し心配になった。
そんな綾の胸のうちなど勘付くこともなく、近藤は人の良い笑みを浮かべている。 太陽のような温かな笑顔だ。 ふと、綾は江戸にいる弟を思い出した。
「ところで雪之丞殿。これからちと時間ございますか?」 「…は?」
考えを廻らせていたため、綾の反応は遅れてしまった。 時間? 唐突な質問に顔をしかめると、近藤は笑みを深くしながら頷いた。
「飯時からは外れておりますが、旨い蕎麦の店を見つけたのです。ここで出会ったのも何かの縁。少しお付き合いして下さいませんか」 「はぁ…」 「あ、決して無理強いはいたしませんが」
近藤の突然の誘いに綾は困惑した。 自分が松平姓を名乗ったから、近づいた方が得策だと考えたのだろうか。 壬生浪士組は容保はともかく、周辺の家臣たちの評判は良くない。 故に家臣筋という松平雪之丞を味方に引き入れたいという寸法なのだろうか。
だが綾にはどうしても近藤に他意があるようには見受けられなかった。 綾自身は警戒心の薄い人間ではない。むしろ強い方だと思っている。 紀州時代から工作で近づいてくる輩はいた。 久松松平も家臣筋の中では有力な方である。特に今は将軍生母であり綾の実母でもある実成院を出したことで、多大な勢力を誇っている。 どこにでも権力に群がる意地汚い人間はいるものだ。
幼少の頃から人間の汚い部分を目にすることが多かったせいで、人を見る目は備わっている。 綾は近藤はただ純粋に誘っているだけなのだろうと思った。 直感だったが真実のように思えて仕方なかった。 それに元々綾は好奇心が強い。 容保が家臣たちの忠告を退けてまで会おうとする近藤という男は、一体どのような人柄なのだろうか。 気にならないといえば嘘だった。
「いいですよ。俺でよければ」 「良かった。では参りましょう」
綾の返事に近藤は笑みを落とすと、こちらですと歩き始めた。 あっさり背中を見せたその姿に、綾も思わず笑顔になった。 先ほどまでの憂鬱は、当に消え失せていた。
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