皆が出ていってしまうと、屯所は一気に静まり返った。 綾は台所で夕飯の仕込みをした後、自室に向かった。
中庭に差し掛かった時、正面に山南の姿が見えて綾は目を見開いた。 確か山南は平助と共に広間に向かったはずだが。 話は終わったのだろうかと瞬きを繰り返せば、こちらに気付いた山南は柔和な笑みを浮かべた。
「おや、雪之丞くん。今から部屋に向かうところですか?」 「あ、はい」
綾が頷くと、山南はそうですかと言った。 屯所に来た当初から綾はあまり山南のことが得意でなかったが、最近ではますます拍車が掛ってしまった。 腕を怪我して以来、山南は誰に対しても辛らつになってしまった。 元の身分のことがあるからか、あからさまに綾に当たるようなことはなかったが、言葉の節々に棘を感じるのは気のせいではないだろう。
「君の肩はまだ治らないのですか?」 「え、ええ、まぁ…。もう少しかかるらしいです」 「そうですか。…それでも、また刀を握ることが出来るんですってね」
綾は言葉を詰まらせた。 自分は時間がかかるものの、いずれ元のように刀を振れる。 しかし山南はそれすら敵わないのだ。 山南は優秀な剣客である。綾以上に刀に触れる機会が多かったし、実力に誇りを持っていただろう。 それだけに何と声を掛けていいのか、綾には解らなかった。
「君はいいですね。怪我したのにまた刀を持つことが出来るなんて。羨ましいことです」 「……」 「何故、私なのでしょうね」
寂しさの中に苛立ちを混じらせて、山南が呟いた。 綾には彼に掛ける言葉がなかった。 気まずい沈黙の後、山南は平助が待っているからと、広間の方へ行ってしまった。
取り残された綾は山南の背中を黙って見送った。 山南の気持ちは痛いほど解る。一時は自分も味わった恐怖だ。それを山南は継続して抱き続けているのである。 剣客が刀を握ることが出来ないのは、身を貫かれるほど痛く苦しい。 だからこそ、何を言っても山南の心を癒せないだろうと、綾は落ち込んだ。
「雪之丞くん」
溜め息をついた綾の背後から声が聴こえた。 全く気配を察していなかったので、綾は驚いて弾けるように振り返る。 すると、場に似合わない軽い笑い声が響いた。
後ろにいたのは沖田だった。 沖田は中庭から、縁側に立つ綾を見上げている。
綾の身体に緊張が走った。 沖田と会ったのは、実に池田屋の一件以来だった。 互いに最近まで床に伏せっていたし、見舞いに行くような仲ではない。 その為に、池田屋のことを思い出して綾は顔を強張らせた。
沖田は綾を見つめた後、静かに縁側に腰掛けた。 そして隣をポンポン、と軽く叩く。 まるで座れと合図されているようで、綾は戸惑いを覚えた。
「立ったままじゃ辛いでしょ?僕もまだ万全じゃないし」 「え、あの、」 「少し君と話したいんだ」
その声音に普段の棘がないことに気付いて、綾は困惑した。 沖田はほとんど自分から綾に話しかけてこなかったし、話しかけたとしてもそれは全て嫌みを言う時だった。 なのに今は、そんな空気が一切見られない。 当惑しつつも抗う理由もないので、綾は言われた通り隣に腰掛けた。
真夏の昼だというのに風が涼しく、結いあげた髪の遅れ毛を弄ぶ。 晴れ渡った青い空には真っ白な雲が浮かんでいた。
「雪之丞くん」 「は、い」 「池田屋のことなんだけどさ、その、…ありがとう」 「……え?」
意表を突かれ、綾は驚いて沖田を見遣る。 すると沖田は苦笑した。
「君に助けられて、まだお礼言っていなかったから」 「助けたなんて、そんな…」
むしろ助けられたのは自分だ。 綾は呆然と沖田の顔を凝視した。 そんなことを沖田から言われるなど、夢にも思わなかった。
沖田は緩く笑みを浮かべ、少し首を傾げた。 その瞳が敵意どころか優しい色を浮かべているから、ますます綾は困惑した。
「多分少し前から僕は君を認めていたと思うんだ。だけど妙に意固地になっていたし、きっかけがなくて言えなかった」 「沖田、さん…」 「とっくに君が生半可な気持ちで入隊した訳じゃないって、知っていたのにね」
今までごめん、と沖田は言った。 綾は言葉を直ぐには受け入れられず戸惑ったが、徐々に心が温かくなるのを感じた。 新選組のほどんどの人に認められたが、沖田については諦めていた。 なぜなら沖田だけは綾の入隊が、近藤を困らせているから嫌っていたのだ。 随分辛らつなことを言われたし、それは尤もだと自身でも思うところだった。 だからこそ沖田がこうして謝ってくれるのは、青天の霹靂だった。
口の開閉を繰り返し、綾は何も言えなかった。 そんな彼女を沖田は静かに見つめている。 翡翠色の瞳は親しい人を見る時のように優しさを含んでいて、それがあまりに新鮮で綾はますます言葉を失う。 それと同時に綾の心臓は飛び跳ねるようだった。まるで身体から突き破ってしまいそうだ。 なぜだろう、いつもの緊張と違う。 綾は自身の身体に走った痺れに、驚いた。 どうして沖田の目に心がざわめくのだろうか。
「僕は、近藤さんが好きだよ。子供の頃からずっと慕っているし尊敬している」
沈黙を破ったのは沖田だった。 彼は空を仰いで、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 口元は緩んでいた。
「だから本当は君の気持ちも解るし、君が近藤さんを慕うのも解るんだ」 「沖田さん…」 「近藤さんが好きな者同士、これからは仲良くしよう」
沖田は再び綾に視線を移す。 綾は今度こそ頷いて、そしてようやく笑った。
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