第十四章
蚊帳
元治元年七月十九日。 明朝から屯所内は活気づいていた。
綾は千鶴と共に廊下を歩いていた。 千鶴は晴れやかな顔をしている。口に出してはいないが、随分解りやすい。 思わず苦笑しながら、綾は目を細めた。
「嬉しそうだね」 「えっ?」
弾かれたように顔を上げた千鶴は、大きな目を丸くしている。 そしてすぐに彼女は恥ずかしそうに頬を染めた。
「もしかして、顔に出ていましたか?」 「素直なのはいいことだよ」
綾は軽く笑んで、千鶴の頭を撫でた。 女だと明かして以来、ますます二人は一緒にいる機会が増えた。 やはり同性の心地よさというべきか、特に千鶴は綾を慕っている。 傍から見れば仲の良い姉妹のような関係だった。
「お供出来ることが嬉しいんです」
千鶴は目を輝かせる。 ここまで嬉しそうなのは珍しいと、綾は思った。
本日朝早くに隊士全員に呼び出しがかかり、会津藩から出陣要請があった旨を近藤が告げた。 会津藩は今まで新選組に対し、あまり良い対応をしなかった。 容保はともかく大半の藩士に、所詮浪人集団と見くびられていたのが実情である。 だが池田屋の一件以来世間からの評価は増し、ついに新選組も会津藩の一組織として名実共に認められる日がやってきたのだ。 近藤を始め隊士達は皆喜んだ。試衛館派の喜びは格別である。
勿論綾も歓喜したのだが、今回の件を素直に喜び切れなかったのは同行が許されなかったからである。 左肩の傷は未だ完治しておらず、平助共々負傷しているため、普段の八番組の巡察は永倉や原田に預けている。 とてもじゃないが刀を振り回す状態ではなかった。 せっかくの晴れ舞台だというのにと、綾は心底残念だった。
対して千鶴は池田屋の働きが認められ、同行を許可された。 今までの軟禁生活を考えれば大出世だ。 千鶴は緩む頬を抑えながら、瞬きを繰り返した。
「少し仲間だって思われたみたいで、それが嬉しいんです」 「千鶴…」 「あ、勘違いなのは解っているんですけど」
慌てて身振り手振りで否定してみせる千鶴に、綾は苦笑した。 千鶴も随分新選組に馴染んできて、仲間の一人のように感じることが多くなった。 それでも実際はほとんど囚人のような扱いなのではあるが。
綾は新選組に入隊したばかりの自身を思い出した。 敵意を向けられ、厄介者扱いを受けたあの日々。 一年経ってようやく自分を認めてくれる人が増えてきた。 だから綾には千鶴の気持ちがよく解った。
「綾さん」
思い出に浸っていると、不意に千鶴が声をかけた。 声音が数段暗くなっていることに、綾は気付いて眉を顰める。 立ち止まった千鶴は俯いて不安げな面持ちをしていた。
「でも、戦うことの出来ない私が戦場についていって、それはご迷惑ではないでしょうか」 「え?」 「先ほどまでは嬉しくて忘れていたんですが、その…」
目を伏せる千鶴を、綾は真っすぐ見つめた。 何故突然暗くなったのかと思えば…。 綾は頭の中で考えを巡らせた。
「戦場で必要なのは、何も刀を扱う人だけではない」
慎重に言葉を選びながら口を開く。 千鶴は驚いた様子で綾を見上げた。
「千鶴が今回任されたのは伝令だったね?」 「は、い」 「伝令は戦において重要な任務だよ。情報の有無が隊の生死に関わる」
通信機器がない時代の戦場では、伝令というのは大変重要な存在であった。 上からの指令、極秘の情報など全て伝令が運んだからだ。 伝令が上手く機能しなければ、いくら戦闘員が優秀でも負けてしまう。 戦というのは常に情報戦である。 故に敵方の伝令を捕まえて殺すというのは、有効な戦術の一つであったし、戦国時代はよく行われた。
千鶴が任されるのは無論そこまで重要な役目ではない。 部外者に危険なことをさせる訳はないし、そもそも重要機密を握らせることはないだろうと、綾は内心思っていた。 それでも千鶴が負い目を感じるのは違う。 綾は微笑みながら、千鶴を見つめた。
「刀を振り回すだけが役に立つことじゃないよ。現に、池田屋では千鶴がいて助かった人は多いでしょ?」 「綾、さん…」 「医学の心得がある人が一人でも多くいるのは、強みでもあるんだよ。私は人を救う千鶴の手が好きだな」
自分の手が誰かの命を奪うのだとしたら、千鶴の手は誰かの命を救う手だ。 綾は少し悲しくなりつつも、表に出さず笑ってみせた。 選んだのは自身であるし後悔もしていないが。
そっと千鶴の手を取って、綾は優しく包み込んだ。
「近藤先生を頼むね」
千鶴は目を大きく見開いて凝視する。 綾がどれほど近藤を慕っているか、千鶴もよく存じていた。 だからこそ胸に温かいものが広がる。 何度も何度も頷いて、千鶴は笑った。
「はい、頑張ります!」
元気のよい返事に、綾も笑んで頷き返した。
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