「もし、そこのお方」
無心になって泣いているところに声を掛けられ、ビクリと綾は肩を揺らした。 剣術を嗜んでいる故に多少の気配であれば察することが出来るが、生憎今は通常の状態ではなかったため勘付くことが出来なかったらしい。 泣いているところを見られては分が悪い。元より泣くことが許されない立場だ。 顔を上げるのを躊躇う綾の方へ足音が近寄ってきた。
「大丈夫ですか?具合が悪いのでは」
優しげな中に心配の色を滲ませた声音は、綾よりも一回りほど年上の男の声だ。 視界に入った草鞋と白い足袋、山吹色の袴の裾。 足音や気配から察するにこの男一人のようである。 心配そうに声を発するところから見るに、かなり人が良さそうだ。
本当は具合など悪くはないから、綾の心に申し訳ない気持ちが沸く。 意を決してぐいと乱暴に袖で涙を拭うと、そのまま顔を上げた。
視界に映った男は二十代の後半ぐらいだろうか。 漆黒の髪を江戸風に髷を作り結っている。 恰幅の良い身体と真っ黒の羽織、そして見るのからに性格の良さそうな雰囲気を漂わせる顔つき。 腰には得物が二つ、どう考えても武士の佇まいである。
羽織の紋を見て綾は首を傾げた。 見たことのない家紋だ。一体どこのものだろうか。
綾は会津だけでなく桑名や薩摩など、松平家とそれなりに付き合いがある武士の家紋であれば知っているつもりだった。 特に京に来てからは著名な家柄であれば、他藩であろうが目にする機会も多かった。 藩屋敷に出入りする者はそもそも限られているし、藩主の容保に目通りが適うのはある程度の身分の者だ。
しかもここは容保の自室に通じる道である。 小奇麗に正装しているところを見るに、容保よりも身分は下るはずだ。供の者をつけていないことからも推測できる。 私用なのは間違いないのだろうが…。綾は額に眉を寄せた。
「大丈夫ですか?」
訝しげな綾の表情を取り違えたのか、男は慌てたように声を掛ける。 間者だろうか。それにしては堂々としすぎているし、何よりこの男は正直な性質に思える。 それすらも演技だとしたら相当の手練だろうが…。 そこまで考えて綾は思考を留めた。 考えても解るものではないし、元より泣き顔を見られたのだ。平然としてはいられない。 もう一度乱暴に顔を拭い、綾は微かに口元だけで笑みを作った。
「大丈夫です。心配していただきありがとうございます」 「そうですか、良かった」
想像したよりも綾の声音は正常に聴こえたのだろう、男はホッと胸を撫で下ろした。 こんなに正直そうな男が間者なのだろうか。 何だか疑うのも馬鹿らしい気がして、綾は思わず苦笑した。
「すみません。お見苦しいところを見せて」 「あ、いえいえ!そんなのお構いなく!」
綾の言葉に男は慌てて大げさに手を左右に振る。 そして彼ははた、と動きを止めた。 驚いたように目を見開いている。 ようやく綾の目の周りが赤いことに気がついたようだ。 眉間に皺を寄せたが、ありがたいことに彼は何も追及しなかった。
「申し遅れました。私、近藤勇と申します。壬生浪士組で局長を勤めております」
誤魔化すようになされた自己紹介で、綾はようやく男の正体を知った。 壬生浪士組。ああ、そこの局長か。 容保からも、染からも、そして京の街中でも耳にしたことがあった。
将軍徳川家茂上洛の警護を目的として結成された浪士の集団。 家茂上洛後も、芹沢鴨と近藤勇を始めとした一部の浪士が京に残り、京の治安維持を目的として結成した組。 表向きはそうだが、京の人たちからの評判は決して良いものではない。 誰彼構わず切り捨てる人斬り集団。それが専らの印象である。
江戸の太平の世になると、殺人は重罪として扱われた。滅多なことで武士ですら人を殺すことはなかった。 だから人殺しというのは侮蔑の対象だった。 京がいくら治安が悪いとはいえ、殺人は殺人だ。 それでなくとも公家のお膝元で武家は人気がない。 江戸からやってきた浪人集団を贔屓する者など、よっぽど奇特な精神の持ち主だ。
綾は京の人々ほど偏見があるわけではなかった。 養父の容保は、近藤勇という男を評価している。 何度も呼び出しては何やら話をしているようだった。 容保はお人よしとはいえ決して馬鹿な男ではない、見る目がないわけでもない。 だから容保が信用しているのならば、近藤はそれなりなのだろうと綾は思っていた。
近藤勇、か。 目の前の男への警戒心が薄れていくのを綾は感じた。 なるほど立ち振る舞いは武士のそれである。 腑抜けた旗本とは比較にならない、穏やかながら隙のない身のこなしをしている。 それでいてこちらがやたらと警戒心を抱かないのは、近藤の雰囲気が柔らかいからだろうか。 不思議な男だと綾は思った。
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