五月雨 | ナノ









平助の部屋を出た綾は、自室に戻る途中で斎藤に遭遇した。
どうやら綾を探していたらしく、斎藤は僅かに安堵の表情を見せる。
そういえば目覚めてからまだ会っていなかったと、今更ながら自身の迂闊さに気付いて慌てた。


謝る綾に気にせずとも良いと目を細めて言った後、斎藤は探していた理由を話した。
綾に客人があるらしく、八木邸の奥座敷に向かうようとのことだった。
奥座敷は客間の中でも滅多に使われず、実質密使専用になりつつある部屋である。
そこに自分の客が訪れている。
しかも通常客の来訪であれば小姓が知らせるものだ。なのに自身より格上である斎藤が呼びに来た。
綾は顔を強張らせながら座敷へ急いだ。


「近藤雪之丞、只今参りました」
「入れ」


襖の前で声を掛けると、中から土方の声がした。
一拍置いて襖を開け、綾は目を丸くした。


近藤、土方の他に二名の女性がいた。一人は薬師姿の尼御前。そしてもう一人は懐かしの侍女。


「染…?」


半信半疑で綾が口走る。夢心地のような浮いた声音だ。
そのあまりの驚きっぷりに篠山染は可笑しそうに顔を緩ませた。


「お久しゅうございます、綾様」


一礼した女性は、まさしく綾の幼馴染であり信頼する侍女である染である。
伸ばした背筋には威厳さえ見え、武家の女らしく凛とした佇まいだ。


綾は瞬きを繰り返した後、ゆっくりと近藤の方に向き直る。
近藤は嬉しそうな綾の顔を見て、人の良い笑みを浮かべていた。


「お染殿は容保様の使者としてお越しになられたのだ」
「養父上の…」
「左様。まぁ、それも表向きではあるがな」


目を細めて近藤は頷く。本当の理由は口にせずとも解った。
容保は綾が負傷した知らせを聞きつけ、染を遣いに寄越したのだろう。
その気配りにくすぐったくも嬉しい気持ちが沸いた。
相変わらずの心配性だと思うが、そこまで自分を案じて貰えるのは素直に快い。


容保からのお達しは既に済んでいたらしく、近藤の横には書簡が置かれていた。
恐らく大方の話が終わったので綾を呼びだしたのだろう。


染は不意に笑顔を崩し、綾の左肩に視線を寄越す。
俄かにその表情は徐々に険しくなっていった。


「綾様、本日私が訪れた訳はご理解いただけていますね?」


硬い声音には僅かばかり怒気が含まれている。綾は思わず苦笑した。


「心得ています。肩の怪我でしょう」
「ご明察。容保様からの命で医師を連れて参りました。貴女様のお立場では普通の医師に診せることは叶いませんので」


染が目配せすると、隣に控えていた尼御前は深々と一礼した。
確かに綾が医者にかかるには少々問題が多い。
新選組には専属の医師がいない。故に町医者を呼んで往診を頼んでいる。
一応町医者の選別はしているが、どこで情報が漏れるとも知れず、綾は女だと露見する訳にはいかないので安易に医者にかかるのは憚られる。
とはいっても今回の怪我はとてもでないが自力で治す訳にはいかない。それを見越して容保が医師を派遣したのだった。


宮中で時に中宮や女御を診ることもあるという尼御前は、珍しい女医らしい。
口の堅さと腕はお墨付きとのことで、正直助かったと綾は思った。


往診にあたり一時近藤と土方は席を外すことになった。
その際、染は土方に綾の刀を持ってきて欲しいと頼む。
池田屋で歯零れしてしまったのを、染は見越していた。
新選組でも刀匠を呼び修理させるが、綾の南紀重国には葵の紋がはいっている。
そんな刀を迂闊に見せる訳にはいかないので、染が内密に会津から修繕に出すことにしたのだ。
会津藩であれば葵紋の品を持っていても不自然ではない。
染の機転には流石の土方も舌を巻いた。


近藤と土方の姿が消えると、綾は着物を脱いで肩を出した。
包帯を外せば左肩に大きな刀傷が見え、豪気な染も息を呑む。
娘の肩につくような傷ではない。それどころか腑抜け侍では到底つくはずのない、禍々しい斬り合いの名残。
染は顔を顰めて傷を見ていた。


尼御前は慎重に傷跡を診ながら、時折綾に質問をした。
肩を中心にあちらこちら触診され、その度に綾は痛みで顔を歪める。
心の中には不安が渦巻き、心臓は煩く音を立てている。
冷や汗が背を伝わるのを感じながら、綾は審判の時を待った。


「結論から申し上げますと、刀を持つことは可能にございます」
「本当に?」


神妙な尼御前の言葉に、綾は弾かれるごとく顔を上げた。
刀を握ることが出来る。それは涙が出るほど嬉しかった。
喜色を浮かべる綾に尼御前は一瞬顔を綻ばせたが、直ぐに畏まった。


「しかしながら、当分刀はおろかあまり左肩を使ってはなりませぬ」
「当分、とは?」
「軽く見積もってひと月にございます」


綾は硬直した。ひと月も刀を持つことを禁じられる。ひと月も隊務をこなすことが出来ない。
それはあまりにも酷な宣告であった。ひと月、ひと月の間近藤の役には立てないのだ。
強張った綾の顔を見て、染は眉を吊り上げた。


「綾様、絶対にひと月の期限はお守り下さい。無茶は私が許しません。このことは容保様にもご報告致しますので、そのつもりで」


きっぱりと言い放った染の顔には迷いがなかった。嘘が嫌いな女子なので、染は本当に容保に報告するだろう。
綾は肩を落として、力なく解ったと言った。





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