綾は桟にもたれ座り込んだ。肩に激痛が走る。 次から次へと流れ出る汗は、単に気温が暑いだけではなかった。 袖で拭うと天井を仰いだ。
遠くで鍔迫る音がする。立ち上がらねばと思うが、思うように力が出ない。 このまま刀を握れなくなるのだろうか。 不意に山南を思い出した。彼は一体どんな気持ちでいるのだろうか。 自分も彼のように剣客としては…。そこまで考え首を振る。 今はそんなことで悩んでいる場合ではなかった。
不意に階段を駆け上がる音がして、咄嗟に綾は刀を掴んだ。 抜刀の構えをし、直ぐにでも居合を繰り出せるようにする。 気配が近づいたと思うと、桃色の着物が目に入る。 大きく瞳を開いた千鶴がそこにいた。
「綾さん…!」
千鶴は綾の左肩が赤く染まっているのを見て、血相を変え駆け寄ってきた。 綾は刀から手を離し、そのままずるずると座り込む。 平助が縛った手ぬぐいは既に役に立たなくなっていた。
懐から手ぬぐいを取り出し、千鶴は口に銜えて一気に引き裂いた。 綾の羽織と着物を脱がせる。 肩が出たところで千鶴が息を飲んだ。
胸にさらしを巻いているとはいえ、見る者が見れば一目瞭然である。 千鶴は同性な上、医者の娘で他人の裸を見る機会が多かった。 綾の性別が何であるかなど、彼女にとっては容易に解ってしまった。
「千鶴」 「は、い」 「後で説明するから先に手当てしてくれる?きつく縛って肩を動かせるようにして欲しい」
綾は息を繰り返しながら言った。血が流れ過ぎて頭に靄がかかったようだ。 千鶴は慌てて肩を見る。深手ではあるが幸い神経は外れていた。 要望通りきつく縛っていくと綾は唇を噛んで耐えた。
簡易治療を終えると、綾は再び汗を拭う。 千鶴に露見してしまったのは仕方ない。隠し通せるものではなかっただろう。 それよりも今は沖田と平助だ。
沖田はともかく平助が未だ戻って来ないことに、不安を覚えていた。 彼の性格上綾が怪我していると知っているのに、放置出来るはずがない。片付いたら戻ってくるだろう。 なのに迎えに来ないということは手こずっている証だ。
平時でも平助に勝てないが、更に今は怪我まで負っている。 綾がこんな状態で行ったところで役に立つとは思えない。それは彼女自身にも解っていた。 しかしだからといって知らぬふりをして自分だけ休むなど、もっと出来なかった。 相手の気を逸らすことくらい出来るかも知れない。綾は立ち上がった。
「駄目です、綾さん!」
千鶴は驚いて綾の腕を掴む。だが綾は軽く振り払った。 今まで乱暴なことをされたことがなかったので千鶴は目を見開く。 綾はごめん、と罰が悪そうに言った。
「平助と沖田さんがまだ戦ってる。私も行かなくちゃ」 「綾さん…」 「ごめん、行かせて」
綾は真っすぐ千鶴を見据えた。 千鶴は息を飲んで唇を噛み締める。 立っているのすら痛いはずの怪我。なのにそれでも戦うという。 医者の娘としては止めるべきだろうに、千鶴は出来なかった。 解りました、と頷き、彼女は綾を見つめた。
「ただし私もついて行きます。これ以上は駄目だと思ったら、容赦なく止めますから」
千鶴の強い言葉に、綾は苦笑する。 そしてありがとう、と言った。
廊下に出ると一階で斬り合っている音が響いていた。 浅葱色の人数が増えている。土方隊が到着したのだろう。 二階に援軍が来るのは時間の問題だった。
その時だった。大きな音がしてすぐ目の前の襖が飛ぶ。 綾は背に千鶴を庇いながら刀を構えた。 しかし飛んできたのは浅葱色の羽織。それも額から血を流した平助だった。
「平助くん!」
千鶴が叫ぶ。綾は部屋の向こうに目を走らせた。 短髪で黒ずくめの大柄な男が静かにこちらを見ていた。 彼は綾に目もくれず窓から飛び降り、姿を消した。
「平助くん、しっかりして!」
千鶴が揺するが、平助は返事をせずに呻いている。 頭を怪我している。酷く拙い状況だ。 綾は羽織を脱ぐと、千鶴に手渡した。
「これで止血して」 「えっ、でも…」 「手遅れにならないうちに。早く!」 「は、はい!」
千鶴は躊躇しつつも綾の羽織を引き裂いて止血を始めた。 綾はふと立ちあがる。 沖田の姿も見えないことに、一抹の不安を覚えた。
「ごめん、平助をお願い」 「え、綾、さん」 「ごめん」
千鶴の止める声を無視して綾は奥へと突き進んだ。 何だか胸騒ぎがした。 良くないことが起こっているような、そんな気がした。
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