それから待てど待てども援軍の気配はなかった。 短気な永倉から、平助と苛立ちは伝染していく。
綾は居心地が悪かった。 会津は本当に何をしているというのだろうか。 自分が呼びに行きたい。しかし行けば迷惑がかかる。 会津の姫という立場でありながら、一切役に立てない。何と役立たずなのだろうか。 役立たない身分のくせに迷惑にばかりなって、本当に情けないと綾は顔を顰めた。
「くそ、何やってんだよ会津藩は!」
とうとう我慢出来ずに平助が零す。 それに乗じて永倉も険しい表情を浮かべた。
「流石に遅すぎるな」 「どうします?これで逃がしちゃったら無様ですよ」
いつもの拍子であっても、沖田も硬い顔をしている。 会合が始まり随分時が経った。集まった連中が逃げ出さないうちに斬り込まねば意味はない。 近藤は眉間の皺をますます濃くした。辺りを見渡しても、やはり会津の援軍の姿はない。 ついに彼は決断した。
「やむをえん。我々だけで踏み込むぞ!」
一気に場が高揚する。綾も笑みを浮かべ鯉口に指を滑らせた。
近藤組は路地から抜け勢いのまま池田屋の戸を叩く。 正面からは近藤、永倉、沖田、平助、そして綾だけで、残りは裏口に回った。 一同の顔に緊張が駆け巡る。 店の主人が戸を開けた瞬間沖田と平助が身を滑らせ、閉じられないようこじ開けた。
「会津中将殿お預かり新選組!詮議の為宿内を検める!」
近藤の太い声が建物に響く。 主人の気圧された新選組や!、という金切り声。続いてバタバタと荒い足音。 行燈が消され闇が訪れる。入口から注ぐ月明かりに隊士達の刀が煌めいた。
「手向かいすれば容赦なく斬り捨てる。斬れ!」
声を合図に沖田と平助が飛び出した。綾も二人の後を追う。 浪士たちが階段を駆け降りる音。金属と金属が噛み合う音に、綾は鞘を抜いた。
綾は一人目を居合で仕留め、二人目以降は払い斬った。 正面からはたった五人で踏み込んだとはいえ、皆剣術の遣い手ばかりだ。 天然理心流の宗家である近藤、隊内でも優れた遣い手である部下達。 特に永倉、沖田、平助の三人は近藤四天王と呼ばれている。あと一人である斎藤だけ土方隊にいるが、三人もこちらに遣わせたのは土方の思いやりだろうと綾は思った。
次々と辺りに浪士の死体が重なり、血の匂いが充満していく。 脂を拭う間もなく剣をふるい続ける。平助と共に階段近くに綾は迫った。 目配せをし、二人で階段を駆け上がる。途中で沖田が越し、二階に乗り込んだ。
月明かりすら見えぬ暗い廊下に刀の銀色だけ光る。 三人で慎重に一室の戸を開け放つと、浪士たちが斬りかかってきた。
綾は冷静に一人目を払い斬り、刀を握りなおした。目の前の男と向かい合った途端一気に殺気を感じた。
「小童か」
男が吐き捨てた言葉に眉を動かすが、反論する余裕はなかった。今までの敵と格が違う。 綾は一人だけ名を浮かべた。吉田稔麿。吉田松陰の弟子で宝蔵院流の槍術と柳生新陰流剣術の遣い手。 過激派浪士の中心人物だ。
中段に構え一気に踏み込む。吉田はそれを難なく受け止めた。 鍔迫り合いは分が悪い。綾は後ろに飛び退くと間合いを取った、が直ぐに吉田が今度は打ち込んできた。 刀と刀が擦れ合い高い音が響く。奥歯を噛みしめ耐えようとするが、吉田は容赦なく押す。力を受け流そうにも隙がない。綾はそのまま押された。 かろうじて踏ん張りひっくり返りはしなかったものの、体勢が崩れる。目の前にいるのはそれを見逃すような男ではなかった。 窓から漏れる月明かりに吉田の刀が光り、帯を作りながら振りかかってくる。綾はやっとのことで避けようとするものの、左肩に鋭い痛みが走った。完全に避けきれず吉田の刀が斬りかかったのだ。
熱い痛みに綾は目を見開くが堪える。呻きが口の端から漏れた。 一気に左手の力が抜ける。吉田の追撃を避けたが不自由な肩が仇となり、綾は尻餅をついた。
「綾!」
平助の叫び声が轟く。唸り声を上げながら刀が頭目がけ振りかかってきた。 綾は南紀重国を強く握り締めた。
金属音が頭上で響く。すぐそこにまで迫った吉田の刀は、もう一つの刀に受け止められていた。 信じられない気持ちで綾は刀の主を凝視する。吉田と対峙しているのは沖田だった。
「この子に死なれると目覚めが悪いんだよね」
沖田はそう言い放つなり、吉田の刀を力いっぱい押し返した。 たたらを踏んだ吉田と対峙する沖田の瞳は、どこかいつもと違う色を浮かべている。 綾は立ち上がることを忘れ、沖田の顔を見上げた。
吉田は中段に構えていたが、不意に後ろに退くとそのまま窓から飛び降りた。 呆気にとられた沖田は直ぐに立ち直り、凄まじいなと笑う。 そして視線をようやく綾に向けた。
「何してるの」 「沖田、さん…」 「いつまで座ってるつもり?」
いつもと同じような皮肉交じりの口調だが、どこか柔らかいことに綾は驚いた。 ほら、と目の前に手を出し沖田は綾を引っ張る。 立ち上がりはしたものの、信じられない気持ちで綾は沖田を凝視した。
「沖田さん…。あの、」 「君さ、身の程って解る?相手は格上だったでしょ。そういうのは僕らに任せれば良かったんだよ」
一気にまくしたてられ言葉を失った。 沖田は眉を歪めて翡翠色の瞳を綾に真っすぐ向けている。 もしかして心配してくれたのか。綾は目を丸くして口を半開きにした。
「綾、怪我してる」
いつの間にか部屋は静まり返っている。この部屋に潜伏していた浪士はあらかた片付いたらしい。 平助は綾の羽織を脱がせると、手ぬぐいを乱暴に着物の上から巻きつけて止血した。 きつく縛られ痛みが走る。綾は奥歯を噛み締めた。
「雪之丞くん、ここで休んでいなよ」 「…っ、でも!」 「その肩じゃ刀を持てないでしょ」
沖田の厳しい言葉に、綾は詰まった。 左肩に走る痛みは半端なく、刀を持つどころか動かすことすら億劫だった。 反論出来ずにいる綾を残し、沖田と平助は顔を見合わせる。
「休んでいて大丈夫だって!俺ら、強いしさ」
笑ってみせる平助に、綾は目尻を下げた。 自分がついて行っても邪魔なだけだ。解っている。 ようやく頷いた綾の頭を、平助は軽く叩いた。
先に平助が部屋を出、沖田も踵を返すが不意に立ち止まる。
「だけど君にしては頑張ったかな」 「…え、」 「お疲れ」
瞠目した綾を残し、沖田も去っていく。 その背を信じられない気持ちで綾は見送った。
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