数え十三歳で紀州を出て会津に住み僅かの間に、綾の養父である松平容保は新設された京都守護職に任ぜられた。 その縁あってこうして京に住まいを移した。 会津でも綾の境遇は決して良いものではなかった。
そもそも容保が養父に選ばれたのは、単に会津の松平家が忠誠心に篤かったからに過ぎない。 綾を現将軍の双子の姉として公表することは出来ない。 かといって事情も知らず引き取らせることなど、流石の紀州徳川家でもさせられなかった。 何も言わずに養女に出すとすれば、綾は久松松平家の娘に過ぎなくなってしまう。 紀州での扱いがどうであったにしろ、綾には前紀州藩主の血が半分、そして現徳川将軍と同じ血が流れている。紛れもない事実だ。 粗雑に扱うわけにもいかず、そこで白羽の矢が立ったのが会津だったのだ。
会津若松、松平家。 二代将軍徳川秀忠の四男保科正之家を祖とする、歴とした徳川系の一族だ。 忠誠心に篤く、徳川を立てることを良とする。 会津家訓十五箇条の第一条には『会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない』とある。 藩主である容保も家訓の例に漏れず、徳川大事の男だった。 容保であれば将軍の秘密も死ぬ気で守るであろう。 紀州徳川家は、全会一致で綾を預けることにした。
苦労したのは容保の方である。 養女として迎えたはいいものの、相手は仮にも「御三家の姫」である。しかも現将軍の姉ときた。 自分の実の娘のように扱うわけにはいかない。かといって特別待遇の度が過ぎれば、紀州徳川の秘密が露見する。 苦心の末、全てのものから隠れるように、綾は城の離れで生活せねばならなかった。 容保のことは信頼している。押し付けられて、貧乏くじを引いたものだと同情もした。 だが閉じ込められた生活は、楽しかったとは言いがたかった。
だから容保が京都守護職に任命され京に向かう際、自分も京に住みたいと申し出たのだ。 容保は四六時中京にいるわけではないが、京に会津の屋敷がある。 名目上は娘なのだから、そこに住まうにはなんら問題はない。 会津領内でない場所であれば、綾のように人目を避けねばならない人間も住みやすかった。 京都での生活は、想像以上に気が楽になっていた。
平和呆けをしていたのかも知れない。 屋敷内の人通りを避けた道を選びながら、綾は嘆息した。 京に来てからは、ほとんど自分の陰口を小耳に挟むことはなかった。 容保が綾の傍に置いた侍女は、一応それなりに選ばれた者たちだったから、こういう粗相がないようにされていた。 不審な点があっても井戸端で噂をするような者はいない。 それで忘れていたのだ。 己はこうして、いつ何を言われるのか解らない立場だ。
双子に生まれたことを、恥じているわけではない。 慶福の姉で良かった。その気持ちに嘘偽りはない。 でも悪口を言われて平気な顔が出来るほど、綾は強い人間ではなかった。 今は誰にも会いたくない。 自分の住まいである屋敷奥に向かえば、染が心配するだろう。
紀州時代から傍に使える染は、綾が唯一心を許す侍女だ。 双子生まれで嫌な想いをしてきた綾を、ずっと傍で見てきた。 京に来てからあまり陰口がなくて、誰よりも喜んでいたのは染だった。
だから今は言えない。もう少し時間を置かないと。 瞼が熱くなってきている。鼻を啜る間隔も狭い。 涙なんて見せると、それこそ大層に案じてしまうだろう。 それでなくとも武家の娘たる者、人前で泣くのはみっともない。 綾の足は自然と人のいない場所に向かった。
屋敷内で一番人通りが少ないのは、容保の自室に通じる裏道である。 とはいっても緊急の隠し通路というわけではなく、単に親しい者が簡素なやり取りの後足を運べるように作った道だ。 綾のように、所謂余所者でも教えられていた。 多忙な容保が屋敷に篭ることは珍しく、他藩の藩邸や場合によっては御所に詰めることの多い。 だからかなりの確率で、裏道には人がいなかった。
今も例に漏れず、人っ子一人として見当たらない。 ちょうど良い。 綾は木陰に座り込んだ。 途端に涙が頬を伝って零れ落ちる。 我慢の限界だった。 声も立てず静かに泣く。 泣けば感情の波もおさまると、長年の経験から知っていた。 そのため綾は昔から、悲しいことがあると一人で涙を流すことにしていた。 人知れず泣いて感情を整理し、物事に当たる。 泣くのは確かに恥であるが、それ以上に取り乱すのがみっともない。 誰も見ていないのならば良いだろうと、結論付けていた。
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