前川邸は閑散としている。羅刹になった隊士は皆眠りに就いているし、平隊士は入ることが出来ないからだ。 だからこそ土蔵に近づくにつれ聴こえる悲鳴に、綾は身を竦ませた。
前川邸の中庭に立つ二つの土蔵のうち、左側から物音がする。 くぐもっているが確かに男の悲鳴だ。続いて鞭の音、罵声。 綾は立ち尽くした。足が動かなかった。全身から血の気が引くようだ。 それは平助も同じだったようで、目を見開いている。
「お、平助に…、雪之丞」
そんな二人の後ろから声がして、一拍遅れ振り返った。いつも通りの笑みを浮かべた永倉がいた。 変わらぬ永倉に少し表情が緩んだが、それはすぐに硬直に変わる。彼の手に蝋燭と五寸釘が握られていたからだ。
「新八っつぁん、それ…」 「あ、ああ。これか?土方さんが用意しろってよ。全くあの人も短気で困るぜ」
平助の問いに、永倉はあっさりと答える。何に使うのか、綾は疑問に思っても尋ねることは出来なかった。出来れば知りたくなかったからだ。 青ざめた綾に、永倉はあからさまに拙いという表情になった。彼女がいたのは、どうやら抜け落ちていたらしい。 気まずそうに頭を掻き、そのまま土蔵へと急いだ。
永倉が入って間もなく、近藤、原田が出てきた。二人とも険しい表情をしている。 急いでいるらしい近藤はそのまま足早に八木邸へと戻ったが、原田は綾に気付くと目を見開き、直ぐに近寄ってきた。
「お前らこんな所で何してんだ。八木邸に戻れ」
あまりの剣幕に、平助も言葉を返せない。普段ここまで強い物言いをしない原田だからこそ、事の重要性を知った。 それでも平助は流石に組長である。状況だけでも尋ねようと、口を開いたその時だった。
「ぎゃああああああああああああ」
この世のものではない程の、強烈な悲鳴が土蔵の中から聴こえる。 二人はおろか、原田すらも硬直した。 今までの比ではない。魂をすり減らすような、地獄の叫び。人間はこんな声を上げられるのかと信じがたいほどの金切り声。
先に正気に戻ったのは原田だった。有無を言わさぬ剣幕で綾の腕を掴むと、引きずるように場から離れた。元より彼女には反抗する気力はなかった。 土蔵で何が起こっているのか。永倉が持ち込んだ釘と蝋燭は何に使われているのか。最早想像に難くなかった。
八木邸の縁側に到着するまで無言だった。すっかり青白くなった綾を見て、原田は溜め息を吐きながらも待ってろと言い残し勝手場の方へ消えた。 平助は綾の背を軽くさすり、大丈夫かと尋ねた。
「平助…」 「ああ」 「あれって、拷問、だよね…?」 「…そうだな」
先ほどは驚いた様子であったのに、平助は既に平常心を取り戻している。そのことに綾は幾ばくかの驚愕を覚えた。 あのような声を聞いて、どうして平然としていられるのか解らなかった。 人を斬ったことはある。自分は綺麗なことを言える立場でないと、綾は思っていた。だがそれでも、誰かを嬲り締めあげたことはない。元より、あれは人の所業ではない。
古高を締めあげたのは土方なのだろう。釘と、蝋燭を使って。想像するだけでも身震いがした。何故そのようなことが出来るのかと、信じられない気持ちが充満していた。
唇は未だ震えている。真夏だと云うのに寒気がした。 あんなことが許されるのか。あって良いのか。隊務のためならば何でも許されるのか。
言葉にしなかった。出来なかった。恐ろしくて口にもしたくなかった。
「鬼、だ…」
それを呟いたのは無意識だった。 それでも平助の耳に届いたらしく、彼は顔を顰めた。
「鬼、は言いすぎだろ」
酷く静かな声だったが、だからこそ場違いだった。 綾は虚を突かれ、呆然と平助を見遣る。 彼はどこか苛立った様子だった。
「土方さんのやり方は確かにえげつないけど、身内までが批判しちゃいけねぇだろ。あれは土方さんの趣味じゃなくて、新選組のためにやっていることなんだから」 「でも、だからといってあんなことまでしていいの?」
平助の言い分は尤もだが、綾は納得出来なかった。 鞭で打ちつけるだけでも眉を顰めてしまうというのに、五寸釘と蝋燭を使った拷問である。 凄惨な光景が広がっているだろうと云うのは、もう確定事項だった。 それを肯定するなど、人として許されるのだろうか。
綾の反論に、平助は表情を険しくした。
「それが隊のためなら仕方ないじゃん」 「人がやることでなくても?」 「理想だけじゃやっていけねぇんだよ」
語尾は強かった。平助は真っすぐ見据えている。戸惑う綾を押さえつけるようだった。 出会ってから平助がこのような態度を取ることはなかったから、余計に愕然としてしまった。いつでも穏やかでお人よしなのが、藤堂平助だった。 その平助が、土方の所業を肯定している。 俄かに信じ難かったが、平助は淡々と言葉を紡いでいる。
「光には必ず影がある。土方さんは新選組の暗部を請け負っているんだ。あの人は近藤さんを光にするため、自ら影になる人だ。それを俺らが解ってやらなきゃいけねぇんだよ。感謝こそすれ批判なんか出来る立場じゃない」 「けれど…」 「大事の前に甘いことは言ってられないんだ」
きっぱりと平助は言い放った。大事の前の小事。 でもそこまで言う何かがあるというのだろうか。
「あ、平助に雪之丞くん。広間に集合だって」
険悪になった雰囲気を破ったのは、突如現れた沖田だった。いつの間にか枡屋の尋問は終わったらしい。 解った、と平助が返事をし、そのまま二人は沖田の後ろに続いた。終始無言だった。
平助のいうことは解るが、何もそこまでという気持ちが渦巻く。 綾には納得できなかった。酷い拷問を加えてまでやることなのか、という気持ちが大きかった。
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