五月雨 | ナノ









猫を捕まえることは出来たが、結局嘘をつけない平助のお陰で事態は土方の耳に入った。
騒ぎの発端である原田と永倉、そして平助は随分叱られてしまった。
近藤が助け舟を出さねば、説教は夜まで続いただろうというほどだった。


巻き込まれ、しかも猫を捕まえた綾は怒られはしなかったが、表情が暗かった。
沖田に言われたことが頭の中で旋回し離れなかったからだ。
まだ信用されていないのだと、痛いほど実感した。


勘違いしていたのだ。
近頃では幹部にもあまり遠巻きにされることはなくなった。
平助を筆頭に、原田や永倉とは酒を飲んだりするし、斎藤には頻繁に稽古をつけてもらっている。
井上や山崎など直接親しくしていなくても、以前のように遠慮されているように感じることはなくなった。


沖田に好かれているとは思っていなかったが、それでも面と向かって言われるのはまた違うものだ。
綾は自分でも驚くほど気落ちしていた。


縁側に腰掛けてぼんやりと庭の梅を眺めた。薄紅色の美しい梅の花は、風が吹く度に匂いを運ぶ。
古の昔、彼の菅原道真は自宅の梅の木を惜しんで歌を読んだ。
幼少の頃は解らなかったが今こうしていると、少しだけ気持ちが解る気がすると綾は思った。自身が大人になった証だろうか。


溜め息をついた矢先、足音を聞き取って顔を上げる。廊下の向こう側からやってくるのは近藤だった。
相変わらず人の良い笑みを浮かべている。多忙な近藤がこうも屯所にいることは珍しい。


「雪之丞!」


近藤は綾の姿を見るなり、気さくに手を上げる。綾も返事を返しながら会釈した。
大股で近寄り、近藤は綾の隣に腰を下ろした。


「お手柄だったそうだな」


開口一番に言われるが、何のことか解らない。顔を顰めた綾に、近藤は慌てて付け足した。


「ほら、先刻の」


唐突な言葉に面食らった綾だったが、ようやく理解した。猫を捕まえたことだろう。
気持ちを振り払うよう、静かに微笑んだ。


「たまたま猫の扱いに慣れていただけですよ」
「にしてもお前がいなければ、猫の被害は拡大していただろう。いやぁ、お手柄だな」


そう言うと近藤は豪快に笑った。良いと思えば即座に手放しで褒めるのは近藤の良い所だが、面と向かって言われれば流石に気恥ずかしいものがある。
綾は僅かに頬を染ながら、大したことではないですと首を振った。


「自慢にもなりませんよ。猫を飼っていたことがあるから解っただけで」
「猫を飼っていた?会津で?」
「いいえ、幼少の折。紀州の屋敷で」


まだ幼い頃を思い起こしながら語る。
今となっては懐かしい記憶だった。


「弟が飼っていたので、私も世話をしていたのです」
「弟というと…」
「ええ、慶福です」


周りに人の気配がないのを確認してから言った。予想はしていただろうに、近藤は僅かに目を見開いた。
彼にとってみれば将軍など雲のまた上、生涯会うどころか遠目で見ることすらない人だ。近藤だけではない、新選組に所属する人間は皆そうである。


昔から徳川家に忠誠の念を抱いている近藤は目を輝かせた。


「彼の方は猫がお好きなのか?」
「はい。…というより、動物全般が好きなのですよ」


綾は柔らかく笑った。懐かしい記憶のはずなのに鮮明に思い出された。
まだ紀州で何も知らずにはしゃいでいた幼い頃。一番近くにいたのは家茂だった。
猫の扱い方を教えたのは家茂である。賢い弟は何でも知っていた。


「池の鯉やら小鳥やら…。とにかく動物を可愛がるのが趣味だったのです」
「そうかそうか。…うん?だった、とは?」


頷いていた近藤は、不意に首を傾げた。過去形なのが引っかかった。
綾は苦笑する。これは本人からではなく、容保から聞いた話だがと前置きした。


「江戸に行く前に、飼っていた動物を手放してしまいました」
「なぜ、そのようなことを…」
「自分は将軍になるから、と」


話を聞いた当時のことを思い、綾は目を細めた。誇らしいが切なくもなる話だ。


「良い将軍になるためには己の楽しみよりも、まずは民のことを考えるべきだと」


幕府贔屓の近藤もこれには驚いた。趣味まで捨てるなど聞いたことがない。
しかも徳川家茂が将軍になったのは十三の時である。まだ子供だったというのに、既に器だったのだ。


ただ立派であるが故に物悲しくもなる話だ。僅か十三で将軍になった為に、早くから己よりも民のことを優先することになったのだ。
それは綾も感じた事実だった。自身は好き勝手に生きているので余計に感じた。


「昔から慶福にはそういうところがありました。自分よりも他人を優先する子なのです」


その話に近藤は甚く感動した。


元々徳川家贔屓ではある。近藤の生まれ故郷である多摩は徳川家の直轄領だ。
農民といっても裕福な者ばかりであり、しかも江戸の目先とだけあって、いざという時には徳川の為に戦う覚悟のある勇ましい人間ばかりが育つ土地なのだ。
故に皆剣術に優れ、下手な武士よりも豪胆な男が多い。
そういう土地で育った近藤は、当然のように徳川第一の考えを持っている。


それでも京に上がってからは様々な思想を目の当たりにすることもあって、世の中には徳川を良しとしない人がいることも解っていた。
迷った訳ではない。しかしこうした将軍の逸話を直接聞けばまた違うものである。
自分が忠誠心を誓う徳川の棟梁は、間違った人物ではないのだと解った。


「雪之丞」
「はい」
「もしよければ…、その、また話を聞かせてくれんか」


誰の、とは言われなかったが、すぐに綾は察した。近藤の幕府贔屓は綾も知るところだった。


勿論です、と笑えば近藤も嬉しそうに頬を緩ませる。それが嬉しかった。










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