上手く寝付くことが出来ず綾は羽織を肩にかけて縁側に出た。 真冬の空は透き通り、星が一層輝いている。鮮やかに彩られた月と星を眺めながら、綾はそっと息を吐いた。
紀州にいる頃はよくこうして寒空の中星を見上げた。隣にはいつも、当時まだ慶福と名乗っていた弟がいた。 手を温め合いながら色々な話をしたものだ。庭に咲いた椿のこと、幼い頃作った雪うさぎ、剣術のこと。 綾は記憶が始まる以前から、弟のことが好きだった。
だからこそ胸が痛かった。 沖田の暗い声音が耳に張り付いて離れない。羅刹は新選組に密かに、だが確実に影を落としている。 そもそも幕府が、会津藩が研究を命じなければ良かった。 皆を気落ちさせることも、千鶴が余計なものを目撃して監禁されることもなかった。 羅刹の存在は誰ひとりとして幸せにしてはいない。
家茂は存じているのだろうか。不意に綾は考える。いや、何度もその可能性は思慮したものだ。 将軍である家茂は、果たして羅刹の研究のことを知っているのだろうか。 普通に考えれば彼が知らぬということがないと、綾も解っている。 家茂は今年数え二十歳。物事を理解するには十分な年齢だ。詳しいことは解らずとも、彼の耳に入っているだろうと容易に想像できる。
それでも綾は家茂に知らないで欲しいと思っていた。 儚い願望だとしても、こんな汚く人道から外れた行いを彼が容認していては辛かった。 家茂の性格は姉である綾がよく知っている。賢く優しく穏やかで、それでいて威厳溢れる天性の将軍気質。 世に褒め称えられる家茂は、相変わらず綾の誇りだ。
もう一度息を吐けば白い煙が塊になって漏れ、ゆっくりと浮かんで空に消えていく。 冷たい風は身体を凍えさせるが、それが何だか今は気持ち良かった。俯いた綾は、ふと気配を感じて顔を上げた。
廊下の向こう側からやって来たのは斎藤だった。斎藤の黒い着流しは闇に溶け込んでいる。 冬が似合う人だと綾は思った。 宵闇や凍りつくほど美しい月、真っ赤な椿。 どれも綺麗な瞳を持つ斎藤に似つかわしい。
斎藤は無言のまま綾の隣に腰掛けた。 そして唐突に彼は手を伸ばし、綾の頭を軽く叩く。驚いた綾が凝視すると、斎藤は空を見上げていた。
「自惚れるな」 「え?」 「あんたはそこまで隊の重要機密には関わってない」
優しい手つきとは真逆の厳しい言葉に綾は瞬きを繰り返す。斎藤の思惑を図りかねていた。 綾の頭から手を離すと、斎藤は不意に視線を寄越す。瞳は穏やかだった。
「誰も綾のせいだと思っていない」 「……斎藤さん」 「あんたの家族がどうであれ、あんた自身は大して何もしておらん。故に気にせずとも良い」
綾は息を呑んだ。何と敏い人だろう。 皆山南の怪我のことを考え、己のことで頭を満たしている時だというのに。 視野が広い人だとは思っていたが、まさかここまで勘付かれるとは思わなかった。
何と返事を返せば良いのか綾は解らなかった。どの言葉も薄っぺらく何も伝わらないような気持ちがした。 口の開け閉めを繰り返しているうち、斎藤は静かに微笑んだ。零すような落とすような、小さく柔らかい笑みであった。
「明日も早い。寝ておかねば辛くなる。八番組は朝の巡察だろう」 「…は、い」 「あんたが今せねばならぬことは、八番組伍長として京の町を守ることだ」
端然と諭され、綾は頷いた。それを確認すると斎藤は素早く立ち上がり、闇に溶けるよう廊下の向こうへ消えてしまった。
もう一度星空を見上げ、息を吐く。 寒空の月は凛と輝き、それでいて人を包むように温かかった。
続
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