和やかに食事を進めていたが、様子が変わったのは広間の引き戸が開いたからだ。
「ちょっといいかい?皆」
顔を見せたのは井上である。 試衛館の門人で近藤の兄弟子に当たる井上は、近藤と土方から絶大な信頼を寄せられている。 本日は近藤の手伝いで食事には遅れると聞いていたが…。 何となく嫌な予感がして、綾は眉をひそめた。
「大坂にいる土方さんから手紙が届いたんだが、山南さんが隊務中に重傷を負ったらしい」 「え!?」
場にいる皆が息を呑む。山南が、怪我。綾は手にしていた茶碗を膳に戻した。
井上の話によれば、大坂のとある呉服屋にて斬り合いになり、浪士は退けたが山南が怪我をしてしまったということらしい。
「相当の深手だと手紙に書いてあるけど、傷は左腕とのことだ。剣を握るのは難しいが、命に別状は無いらしい」 「良かった…!」
その言葉に千鶴は安堵の表情を浮かべる。だが他の面々は一様に暗い表情だった。
綾も事の重大さを理解していた。 腕に怪我、刀を握ることが叶わない。 山南は新選組屈指の剣客である。北辰一刀流の免許皆伝で、上役についてからはあまり第一線に出ることはないが、試衛館時代はあの沖田や斎藤を打ち負かしたらしい。 文武両道を謳う北辰一刀流らしい、才にも優れた剣を遣うのだ。
山南が剣を握れないというのは重大である。 新選組にとって優れた剣客が一人いなくなるというのは痛手だ。 それに何より剣客にとって刀を奪われるというのは、死ぬより辛いことだ。 一介の町娘である千鶴とは価値観が違うので仕方ないことではあるが。
綾は冷静に事の次第を説明する斎藤を見つめ、徐々に色を失う千鶴の表情から目を伏せた。
沈黙を破るように沖田が溜め息をつく。どこか投げやりな表情を浮かべていた。
「薬でも何でも使ってもらうしかないですね。山南さんも、納得してくれるんじゃないかな」
沖田の言葉に、綾は弾かれたように顔を上げる。薬。まさか、変若水のことか。 信じられなくて呆然と沖田を見つめるが、沖田は視線に反応せずに淡々と酒を煽っていた。
「総司。…滅多な事を言うもんじゃねぇ。幹部が“新撰組”入りしてどうするんだよ」
永倉が沖田を咎めたが、それは逆効果だった。隣に座る千鶴が息を呑み、眉をひそめたからだ。 拙い。綾は蒼白になった。永倉も沖田も千鶴の存在を忘れている。 慌てて二人に口を挟もうとした。が、それは遮られた。よりによって千鶴に。
「山南さんも新選組ですよね?」 「いや、違う。“新撰組”は“せん”の字を手偏にして…」
空に字を描きながら説明を始めた平助に、空気が張り詰める。それ以上はいけない。綾は咄嗟に千鶴の耳を塞いだ。
「平助!」
それと同時に原田が立ち上がると、力いっぱい平助を殴り飛ばした。小柄な平助は壁に叩きつけられる。 千鶴は目を見開いて呆然とする。綾も流石に驚いた。
「千鶴ちゃんよ。今の話は、君に聞かせられるぎりぎりのところだ。これ以上のことは教えられねぇんだ。気になるだろうけど、何も聞かないで欲しい」
永倉の重い言葉に、千鶴は戸惑う。平助を殴ってまで封じなければいけなかった事実。 永倉は優しく言ってはいるが、真剣でこれ以上踏み込ませないような口調であった。
「でも…」
釈然としないのか食い下がる千鶴を、綾は驚いて凝視する。いけない。 千鶴が捕えられた経緯を考えればこれより先を聞かせるのは、千鶴の為に良くないと解っていた。 綾は千鶴の腕を掴み強引に立ち上がらせる。 突然のことに目を丸くする千鶴に、沖田が言い放った。
「“新撰組”っていうのは、可哀想な子たちのことだよ」
底冷えするほど冷たい声だった。 沖田はどこも見ていない、深い闇のような暗い瞳である。 羅刹のことは、それほど隊内に闇を落としているのだと綾は実感した。胸が痛かった。 羅刹の研究を命じたのは…。首を振って思考を追い払う。今は落ち込んでいる場合ではない。千鶴を部屋から出さねば。
「忘れろ。深く踏み込めば、お前の生き死ににも関わりかねん」
斎藤の言葉に頭でも殴れたような表情を浮かべる千鶴を、綾は部屋から連れだした。
夜の闇に部屋の中から漏れる光が眩しい。力が入らなくなってされるがままの千鶴を、綾は引っ張り続けた。
千鶴の部屋の前まで来ると、綾は優しく彼女の背を押して部屋の中に入れた。
「乱暴なことをしてごめん。食事は部屋に運ぶから、ちょっと待ってて」 「綾さん」
廊下を引き返そうとする綾を、千鶴が呼びとめる。声音は幾分かしっかりとしていた。
「平助くんの話の続きを聞いていたら、私は斬られていましたか」
綾の肩が揺れる。千鶴を見つめれば、彼女は戸惑いの中にも真剣さを含んだ瞳をしていた。 嘘をつくのは容易ではあるが、千鶴の為にはならないだろう。綾は嘆息し、それから彼女を見据えた。
「斬られていたし、これから先もそうだよ」 「そう、ですか…」
覚悟はしていたようではあるが、やはり直接言われると堪えるらしい。千鶴は唇を噛み俯いた。掛ける言葉が見つからず綾は黙って立ちすくむ。 暫しの後、千鶴は顔を上げた。そこには張り付けたような笑顔があった。
「解りました。お手数をおかけしました」 「千鶴…」 「食事、私はもう良いので綾さんは続きを摂られて下さい」
痛々しい強がりに綾は顔を顰めるが、溜め息の後何も言わずに踵を返した。 月明かりは皮肉なほど透き通り、美しかった。
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