二人は暫し睨みあっていたが、ふと斎藤の肩が揺れる。 沖田の方も何かを感じたようで右手を刀の鯉口に走らせた。一拍遅れで綾にも訳が解る。 誰かの気配が近づいていた。隠すことすら忘れた無防備な気配であるし、第一屯所の内部なので敵の可能性は低いが、念のために綾も抜刀の構えを取る。
視線の先に現れたのは、桃色の着物に白い袴を纏った小柄の少女、雪村千鶴である。 姿を確認した途端、三人は緊張を解いた。 千鶴相手に警戒は必要ない。未だ幽閉中ではあるが、千鶴が三人を上回る剣客や暗殺者ではないことは明白であった。
千鶴は自分に好意的な綾の姿を見つけホッとしたように表情を緩めたが、沖田と斎藤に用があったらしく視線を外す。 どうやら幹部に用事なのだと綾は思った。綾で事足りるのであれば二人きりになった時にでも話しかけてくるはずだからだ。
斎藤はまだしも沖田は千鶴にも辛らつな態度を取り、事あるごとに殺すと口にしている。 千鶴が沖田に対し怯えを抱いているのは皆勘付いていた。 その沖田や斎藤に話があるならば、と綾は僅かに身を引いた。
果たして千鶴の用件は自分の外出のことだった。早く父を捜しに行きたいのだという。綾は無理もない話だと痛ましく思った。 千鶴は危険を冒し男装してまで遥々父親を捜しに京に来たのだ。なのに現在監禁され、父と再会するどころか安否すら解らない状態だ。 千鶴一人が探し回ったところで監察も見つけられていない人物を探し出せるとは思えないが、それでも引きこもって何もしないのはどんなにもどかしいことだろうか。
綾は物心ついた時から両親とは引き離されて育った。だから千鶴が身を危険に晒してまで父を捜す気持ちは、残念ながら解らない。 それほどまでに思える肉親がいるというのは羨ましいような気がした。
もしも自分だったら母親である実成院を探すだろうか。否、そんな自身は想像できない。 案ずる気持が沸くかすらも、正直なところ怪しいものだった。故に綾にとってある意味千鶴の境遇は憧れだ。
取り留めのないことを考えているうちに、いつの間にか事態は思わぬ方向に動いていた。斎藤が千鶴の腕を試すのだという。 話を半分しか聞いていなかった綾には突拍子もない展開に思えた。 慌てて止めに入ろうとしたが、寸でのところで思い留まる。斎藤が何の考えもなしに行動するような人物でないと知っていたからだ。
千鶴は真剣を斎藤に向けることに躊躇いがあるらしく、色々と述べている。それについて沖田は大声で笑い飛ばした。斎藤が千鶴の剣で怪我をするのは有り得ないと言った。 綾も沖田の言う通り、千鶴が斎藤に怪我をさせるのは天地が引っ繰り返っても不可能だと思っている。 剣を極めた自分でも難しいのに、まして町道場に齧る程度通った千鶴の腕では全く期待できない。それほどまでに斎藤の剣術は秀でている。
しかし綾が沖田と違ったのは、千鶴の心根の優しさを感じたことであった。 千鶴にとって斎藤を始め新選組の面々は自分を拘束する謂わば敵だ。好意的に思ってはいないだろうし、それが自然だ。 だというのに千鶴はその敵であるはずの斎藤の身を案じた。綾はそのことに対して好意的な感情を募らせた。
優しい子だと思う。自分だったらこの際と思うかも知れないのに。 町娘として平穏に暮らしてきたからこその発想だとしても、綾には眩しく映った。
沖田と綾の予想通り、千鶴の小太刀は軽々と弾かれ尚且つ首筋に斎藤の刀が当てられた。目にも留まらぬ抜刀術、居合は斎藤の十八番である。 流れるような動作は何度見ても惚れ惚れするほど美しいと、綾は眩しい物を見るように目を細めた。
「師を誇れ。お前の剣には曇りが無い」
事も無げに刀を鞘に納めながら斎藤が言い放つ。千鶴は何が起こったのか理解出来ていないようで、呆然と目を見開いている。 沖田は弾かれた小太刀を拾うと、しげしげと眺めながら千鶴に渡した。
「居合って…?」
千鶴は痺れた腕を無理に動かし、小太刀を鞘に入れた。大きな瞳が三人に向けられる。遠慮がちな質問に綾は微笑んだ。 無表情なままの斎藤は、視線を千鶴に寄越す。
「帯刀状態から、抜き打ちの一撃を放つ技だ」 「居合は片手で抜き打つことが多いから、結果的に威力が下がって実用性は低いなんて言われることもあるんだけどね」
素っ気ない解説に沖田が補足する。彼が居合をしている姿を綾は見たことがなかったが、居合はどの流派でも基礎だ。 こういう言葉が直ぐに出るのは流石に師範代である。 千鶴は真剣な表情で二人の話を聞いていた。
「でも、斎藤さんの居合は一撃必殺ですよね」
彼女が呟いた言葉に、沖田は無邪気な笑顔で頷いた。もし斎藤に殺意があれば、千鶴の首筋は斬られていたと付け加える。 急に恐ろしくなったのか、千鶴は自分の手のひらと斎藤を交互に見て眉を寄せる。 居合は一撃目の正確さが問われる。速度が遅ければ力のいらぬ居合は防がれてしまう。そういった意味では百発百中の命中率を誇る斎藤の居合は、怖いものなしであった。
愕然とした千鶴に、沖田と斎藤は土方に交渉してみると約束する。すると千鶴は今までの曇り顔を晴れやかにした。土方が帰らぬことにはどうしようもないが、外出許可の件は二人が口添えすれば大丈夫だろうと綾は思った。 隊内屈指の剣客が太鼓判押せば土方は時期を見て許可をくれるはずだ。 嬉しそうな千鶴に綾の頬も緩む。思わず良かったね、と声を掛けた。
「八番組と同行する時は俺の傍にいるといいよ。出来る限り守ってあげるからね」 「ありがとうございます、綾さん」
優しい言葉に千鶴も微笑む。傍から見れば仲の良い姉妹だ。勿論、綾が女だと知っている者限定だが。 綾は千鶴と話すことで癒されると感じていた。男装して気丈に振る舞っても、同性の傍は安心する。特に千鶴のように害意のない者なら余計に。
沖田に促され、千鶴は部屋に戻った。どうやら千鶴の監視は沖田だったようで、ようやく彼女が部屋を抜け出していると気付いたのだ。
残された斎藤と綾は千鶴の後ろ姿を見送った。 が、綾は何やら視線を感じて顔を上げる。隣に立っている斎藤が黙ってこちらを凝視していた。 訝しげに顔をしかめる。顔に塵でもついているのだろうか。
「斎藤さん?」 「雪村は、あんたのことを綾と呼んでいるのか」 「え?」 「先ほど、“綾さん”と言っていた」
斎藤の言葉で遅まきながら視線の訳を察した。綾というのは本名だ。土方は耳にタコが出来るほど性別を明かすなと言った。命令に反し教えたのかと、斎藤は問いたいのだろう。 綾は静かに首を左右に振り、性別を明かさず本名を知られた経緯を話す。 平助が呼ぶのを聞いて、という理由に斎藤は僅かに眉を歪めたが何も言わなかった。いつか露見するだろうことは彼もまた想像に難しくなかったのだ。
「斎藤さんが案じているようなことはないので、ご安心下さい。あの子は私のことを“近藤雪之丞”と思っていますよ」
柔らかく笑んで綾が言えば、そうだなと斎藤は頷いた。 呼び方は呼び方ではあるが、恐らく千鶴は綾が女だと夢にも思っていない。これからも誰かの口から洩れるようなことがない限り、続いていく事実だ。 斎藤は目を伏せ視界を閉ざした。 そして次に目を開いた時、その瞳に僅かばかり揺れるものを見つけ、綾は首を傾げた。
「綾」
斎藤の唇から零れ落ちたものに、綾は一拍遅れて瞠目する。 今まで斎藤は本名で呼んできたことなどない。そもそも自分を女の名で呼ぶのは平助と千鶴だけなのだから。
少し照れているのか斎藤は頬を薄らと赤らめている。しかしそれでも彼は呼んだ。
「綾」 「斎藤さん…」 「俺も、そう呼んでも構わないだろうか」
真摯な声音に綾は息を吐いた。白く浮かんで揺れ、吐息は空に混じる。 斎藤から目を離すことが叶わない。
「良いですが、どうして…」 「俺はあんたの師匠だ。師が弟子を偽りの名で呼ぶのは褒められたものではない。それに」 「それに?」
言い淀んだ言葉を促せば、斎藤は真っすぐ透き通った眼差しを向けた。
「それに、俺はあんたの友人でもあるからな」
胸が熱くなる。綾は思わず手を握り締めた。 はい、とようやく返した言葉はかすれてしまったが、斎藤には伝わったようだ。彼もまた穏やかに微笑んだのだから。 互いに白い息を吐きながら、顔を見合わせて笑う。それが今は嬉しかった。
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