五月雨 | ナノ










膳を抱えて廊下を歩く綾の視界に、障子の前でうずくまっている平助が映った。
寒いのか時折手に息を吹きかけていた平助は、足音で人が来たことに気付き顔を上げた。途端にそれが驚愕に変わった。


「え、綾?」


平助の困惑は尤もである。彼が誰よりも土方に釘を刺されたのだ。綾を絶対に近づけないように。部屋の隣の主は険悪の仲の沖田である。隣人に用がある訳がないから、そう考えるとますます有り得なかった。


「おはよう、平助。一晩お疲れだったね」
「ま、まぁな」
「朝食が出来たから広間に行きなよ。ご飯食べてさっさと仮眠取って。八番組は夜の巡察を控えている」
「お、おう。ありがとう。いや、でも、何で綾がここに?」
「原田さんが、持って行けって」


綾の返事でようやく平助も意図に気付いたらしい。そうか、と頷くと彼は立ちあがって伸びをした。一晩中一睡もせずに見張り続けたため、目が痛い。確かに綾の言うとおり、朝食の後仮眠を取るのが上策だろうと平助は思った。


「そんじゃ先に行ってるな」
「はいはい。また後で」


挨拶もそこそこに平助は踵を返して、半ば駆け足で廊下を歩いて行った。どうやら腹が随分空いているらしい。綾は後ろ姿を見送りながら苦笑し、膳を一端置いた。


「開けてもいいですか?」


深呼吸の後に障子の向こうに声を掛ける。自分は一応“男”だということになっているはずだ。中の彼女が寝ていたり着替えの最中では拙いことになる。そう思った綾は中を窺った。
一拍置いた後、部屋の奥からどうぞ、と小さな声がした。


綾は障子をそっと開いた。朝の眩しい日差しが暗い部屋に降り注ぐ。
部屋の隅に布団は畳まれており、中央に一人の少年が正座していた。
少年…、男装した少女、彼女が雪村千鶴である。
男装歴が長く女の身である綾は、恐らく事前に知らされてなくとも目の前の人が女だと気付いただろう。父親捜しをするにあたって初めて男装したのだと、解る成りであった。雰囲気はまさしく女性のそれである。


千鶴は見慣れない隊士が膳を運んできたことに驚いたようで、目を見開いて綾を見つめていた。


「あ、お、おはようございます」
「おはよう」


出来るだけ柔和に綾は微笑み、部屋に踏み込んだ。千鶴の目前に膳を置く。困惑を隠せない彼女は、じっと綾の動作を見ていた。
自分とあまり歳は変わらないだろうと綾は思った。少し幼い気はするが、同世代であるのは間違いない。


「朝食だよ。どうぞ」
「あの」
「うん?」
「その、あなたは…、どなたですか?」


恐る恐るといった風に、千鶴は声を掛けた。突然現れた自分に戸惑っているのだろう。綾はまだ自身が名乗りをしていなかったことに気付いた。
自分が千鶴のことを知っていたから、忘れていたのだ。


「失礼。八番組伍長、近藤雪之丞です」
「近藤、さん?」
「うん、近藤局長の親戚なんだ」


そう言った綾に、彼女は驚いたように瞬きそれから当惑した。
何かを言いたげである。不思議に思った綾だったが気付かないふりをして、膳に視線を向けた。


「冷めないうちに召し上がれ」


綾が促すと、慌てて千鶴は箸を取る。軽く手を合わせた後で茶碗を握った。
見張りの綾は少し離れてその様子を見ていた。娘は格別品がある訳ではないが、どこか仕草が丁寧だ。やはり女だな、と思った。


見られているのが気になるのか、千鶴はちらちら綾の方を窺う。その視線に綾は苦笑した。


「俺は朝からあまり入らないんだ。ちゃんと後で食べるし、遠慮なくどうぞ」
「あ、でも…」
「それに今日は俺が炊事当番だったから、残さず食べてくれた方が気持ちいいな」


優しく言うと、千鶴は小さく頷いてご飯を口に運ぶ。普段乱暴なまでに掻き込む男共を見ている綾にとって、千鶴のゆっくりとした食べ方は新鮮に思えた。
新選組入隊までは千鶴の食べ方の方が主だったのに、今では違和感を感じる。自分が男の中で生活するのに慣れてきたのだと、綾はふと実感した。


「君は江戸の出身だと聞いたけど、江戸のどの辺りなんだい?」


手持無沙汰になった綾が尋ねると、千鶴は弾かれたように顔を上げた。何か驚いたようだ。訝しげに綾は眉を寄せる。驚くようなことを聞いただろうか。
考えて、少し思い当たった。そうか、今までこの娘に雑談をするような隊士はいなかったのだろう。


雪村千鶴は客人という名目ながら、実質囚人である。だから綾が場に留まっているのにすら、驚いていたのだ。
綾は目の前の娘を哀れに感じた。もう少し気遣ってあげればいいのに、何分武骨な男共である。未だ敵意を秘めた眼差しで千鶴を見ているのだ。捕えた経緯を図れば仕方ないことではあるが。


それでも千鶴に同情的な綾は態度を改める気はなかった。千鶴が裏切った時は勿論刀を抜くつもりではあるが、殺気を帯びた態度で接する必要はないだろう。元々ただの町人の娘に酷である。もし自分だったらどんなに不安だろうと思った。


「俺は江戸の出身ではないけど、大事な知り合いがいてさ。だから話を聞くのが好きなんだ」


綾が優しく付け足すと、ハッと千鶴は我に返った。まだ問いに答えていないことに気付いたのだ。


「わ、私は城下の外れに住んでいました。父が診療所を営んでいましたので」


しどろもどろな千鶴の言葉に綾は目を細めた。江戸の城下。行ったこともないのに、懐かしい響きだ。


「城下か。実家からお城は見えた?」
「お城ですか?あ、はい。屋根や石垣だけなら…」
「そっか」


江戸城には言うまでもなく弟の家茂が住んでいる。家茂は数え十三歳で将軍になり、以来江戸城の本丸御殿で生活しているはずだ。大奥には妻の和宮や、母実成院もいる。
江戸の話を聞く度、綾は家茂のことを思い出した。現在いかように暮らしているのか、庶民に下った身では知る由もない。容保にすら会えぬ身分になったのだ。自分で決めたこととはいえ、少々寂しい。


千鶴は黙って綾を見つめていたが、不意に何かを思い出したように瞬いた。綾が視線を向ければ、彼女は及び腰で口を開く。


「あの、先ほど藤堂さんがあなたのことを“綾”って呼んでいましたが、それはどうしてですか?」
「え?」


意表を突かれ、綾は目を見開いた。
ようやく千鶴の不思議そうな顔の訳が解った。
平助は新選組において唯一自分を本名で呼ぶ。先ほども確かに例に漏れずそうだった。


部下である平隊士は尋ねてきたりはしないが、千鶴は純粋に疑問に感じたのだろう。“綾”という女名で呼んでいることは、奇妙に聴こえるだろうから。
綾は笑って、軽く髪を掻きあげた。


「実はさ、最近元服したばかりなんだよね。で、元服前の名前が“綾”」
「でも…」
「女みたいな名前だろ?俺が生まれる前に疫病が流行ったらしくて、厄除けのつもりだったみたいなんだ」


でっちあげにしては上手くいったものだと、綾は内心思った。
古くから厄除けで縁起の悪い名前を入れたり、逆性別の名前をつける慣習がある。幼名であればどうせ元服の際に名を改めるので、階級問わずに流行った。


千鶴も信じたようで、そうなんですかと頷いている。どうやら素直な性質らしい。
それを好ましく思いながら、綾は微笑んだ。


「平助は一番仲がいいから、元服前の名前で呼んでいるんだ。なんだかまだ“雪之丞”って自分の名前じゃないみたいで、しっくりこなくてね」


そう綾が補足すると、千鶴は何かを考え込み始めた。
どうしたのだろうと綾は首を傾げる。
暫くして、決意を秘めた瞳で千鶴は綾を見据えた。


「あの、私も呼んでいいですか?」
「え?」
「私も“綾さん”って、呼んでいいですか?」


流石にこれは予想出来ない言葉だった。
綾は黙って千鶴を見た。千鶴の瞳は透き通っており真っすぐで、他意は見出せない。
近藤局長の親戚に取りいっておこうだなんて、そんな思惑はないように思われる。


千鶴は目の前の青年に好感を抱いたのだった。
朝昼晩と見張りに来る隊士は皆、殺気まではいかずとも敵意を浮かべて千鶴を見ていた。町人として平穏に育った千鶴にとって、ここ数日の生活は息苦しいものだった。そうでなくとも若く血気盛んな男の中で生活しているのである。心に圧し掛かるものは計り知れない。


だが本日やってきた綾は、態度だけでなく隅々まで自分に好意的だった。
このような扱いを受けたのは、江戸に住んでいた時以来である。千鶴は青年とただ純粋に親しくなりたいと思った。
それに青年は新選組の面々のように武骨なところがない。どこか上品な物腰である。そういった部分も千鶴を安心させた。


綾は随分困惑したが、瞼を閉じた後で頷いた。口元は弧を描いている。


「いいよ。その代わり、君のことを千鶴って呼んでもいい?」
「は、はい!勿論」
「そっか、じゃあ千鶴。朝食の続きをどうぞ」


顔を輝かせた千鶴は、慌てて箸を握って味噌汁を啜った。その様子を眺めながら、綾は頬杖をついた。
素直で純朴な娘。それが千鶴に対する印象だった。何だか楽しくなりそうだと、綾は思った。






[] []
[栞をはさむ]


back