五月雨 | ナノ










夕餉を食した後だった。
部屋で平助と共に他愛もない話をしていた綾は、緊急の招集を受ける。
訝しげな顔をしたまま、平助と二人前川邸の玄関に向かった。


玄関には試衛館派の幹部が勢ぞろいしている。
原田と永倉の傍に腰掛けると、彼らは綾まで呼ばれていることに驚いた。
それもそのはず、綾を除けば皆隊の重役である。
組長を任じられている者全てが呼ばれている訳ではないのに、まして伍長の綾である。
しかも呼ばれている場所が場所だ。
何かを悟ったのか、俄かに原田と永倉の表情は険しくなった。


訝しげな表情を浮かべた平助が二人に訳を尋ねようとした、がちょうど斎藤が静かに駆け寄ってきた。


「大変な事態になった」


いつも通りの口調ではあるが、幾分か声音が強張っている。辺りには緊張感が漂った。誰も口を挟まず、斎藤に目を向けている。


「“新撰組”の隊士が二名、夜の巡察に行くと言い残し屯所を出た」


ハッ、と綾の隣で平助が息を呑む。平助ほどあからさまにないにしろ、場にいる全員が目を丸くし、即座に険しい表情を浮かべる。
“新撰組”というのは羅刹たちの隊のことである。平隊士が偶然耳にしても解らないように字だけ変えた隠語だ。
彼らの存在は試衛館派の幹部、一部の監察、そして綾しか知らない。幕府の密命で研究されている羅刹は一般人に知られてはならない。


「それ、無断で出て行ったんだよな?」


嘘であって欲しいとでもいうように平助が恐る恐る尋ねるが、非情にも斎藤は深く頷いて肯定した。
羅刹化した隊士が無断で屯所を出て行った。どう考えても事態を良い方には捉えられない。その後の話も決して明るい物ではなかった。なんと人斬りをしたいと言って出て行ったのだという。苦虫を噛み潰したような表情を、誰もが浮かべた。


土方はまだ場にいない。沖田が呼びに行った。兎にも角にも上役の判断を仰がねばならない。誰も口を利かずに到着を待った。


直ぐに土方と沖田はやって来た。やはり表情は硬い。


土方に指名された斎藤が事情を説明する。時折軽い質問をし、山南が補足した。
一通り聞き終えた土方の表情はますます険しくなっている。
土方は的確に指示を飛ばした。山南と平助が前川邸の見張り、西方に原田と永倉、井上、東方には土方、沖田、斎藤が向かうことにした。


「雪之丞」


全ての指示を終えると、土方はようやく綾に目を向ける。眼差しは真剣だ。


「お前は近藤さんの傍にいろ」
「近藤先生の…?」
「ああ、局長室にいるはずだ」


途端に綾は眉を顰める。てっきり自分にも何らかの指示があると思ったのに。羅刹は元は隊規に反した平隊士である。どう考えても自分の方が腕は立つ。


不満は表情に表れていたのだろう。土方はすっ、と目を細めた。


「お前はまだアイツらを見たことねぇ。対処法も解ってねぇだろうが」
「ですが…」
「言っておくが、お前に命じるのは簡単な任務じゃねぇ」


土方は真っすぐ見据えた。


「近藤局長の護衛だ」


言い放たれた言葉に、綾は目を見開いた。近藤の護衛。重い言葉だった。
綾に羅刹を始末させに行くことを躊躇っただけではない。土方は暗に“もしも”の可能性を唱えた。もしも土方が死んだ場合には、近藤だけでも。


初めて綾は羅刹の危険性を知る。無論土方は滅法強いし、一緒に向かう沖田と斎藤は隊内屈指の剣客である。万が一など到底起こり得ない。
それでも刺されたということは、可能性が零でないと示唆しているのだ。


「了承いたしました」


綾が頷くと、土方は軽く口元を緩めたが直ぐに元の険しい顔に戻る。行け、と全員に向けて言い放った。
事の次第を見守っていた沖田が、場の緊張にそぐわないような笑みを浮かべる。彼は面白い物を発見したかのように綾を見た。


「天然理心流宗家の近藤さんの護衛か。それはそれは立派だね」


丁寧ながら棘がある口調だ。綾は顔を歪める。暗にお前は役立たずだから連れて行かないのだと、言われている気分だった。
カッときたが綾は寸でのところで怒りを納める。感情のまま喚き散らすのは見苦しいしみっともない。
沖田が何かにつけ良い眼で見ていないのは解っていたことだ。どうやら近藤の小姓でないにしろ、大切にされているように見える綾が気に食わないらしい。


唇を噛み、それから綾は真っすぐ沖田を見据えた。


「近藤先生のことはお任せ下さい。何としてもお守りしますので」
「ふぅん、頼もしい限りだね」


沖田は少し意地の悪い笑みを浮かべた。隣にいた斎藤は眉間に皺を寄せる。


「総司。無駄口叩いていないで行くぞ」
「はいはい。それじゃあ、雪之丞くん。またね」


ひらひらと手を振り、沖田は踵を返す。
渋い顔をした斎藤は気遣わしげに綾を見たが、特に何も言わずに後に続いた。


綾は黙ってその後ろ姿を見送り、前川邸に背を向ける。
ふと見上げた夜空には満月が輝いていた。






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