五月雨 | ナノ









巡察の報告にはいつも組長の平助が一人で行くのだが、本日は綾も同伴した。土方は綾がやってきたことに驚いた表情を浮かべた。
斬り合いになった一連の報告を済ませると、土方は真っすぐ綾を見据える。


「お前も参加したのか」


話を聞いた段階で鋭い土方は気付いたらしい。疑問ではなく確信が籠った物言いだった。
果たして綾が頷けば、彼はただそうかと嘆息した。
遅かれ早かれこの日がくるのを予想していたのだろう。特に驚きも嘆きもしなかった。


「それで何だ?新選組を抜けたくなったとか言うんじゃねぇだろな」
「まさか」


即座に綾は否定する。軽口でもそんなことを言われると、少々腹立たしかった。
綾の顔色が変わったのを見て、土方は苦笑する。
普段は実年齢より大人びてみえるが、やはりこういう時の反応で綾が十八の娘なのだと解る。悪い部分ではないから諌めたりはしないが。


土方はふと文机の上を一瞥する。机上には伏せられた封書があった。綾を呼びだす手間が省けた。
気が進まないが近藤にやらせる訳にはいかない。心の中で決意し、顔を上げた。


「雪之丞に話がある」
「俺に、ですか?」
「今から話すことは内密にしろ。ここだけの話だ」


突然の重い言葉に綾は険しい表情を浮かべる。伍長という立場の彼女は、幹部の会議には参加していない。故に新選組自体のことについても平隊士と変わらない程度しか知り得ない。
胸がざわめく。綾は一度だけ深く頷いて了承した。


席を外そうとした平助を押し留め、土方は文机の引き出しから何かを取りだした。
綾の目の前に置かれたのは小瓶である。中に血のような赤い液体が入っていた。隣で平助が弾かれたように顔を上げたが、土方は特に反応しなかった。


「変若水という」
「…変若水?」
「ああ」


おもむろに頷く土方を尻目に、綾は目の前の小瓶に手を伸ばした。障子越しに差し込む日の光に赤い液体が輝く。何だか禍々しいものを感じ、顔を顰めた。
変若水というのは日本神話に登場する不老不死の薬の名である。月の帝である月読が持っていたというので有名だ。
綾もある程度学があるので知っていた。が、故に困惑した。
所詮変若水など空想の産物である。若返りの薬などありえない。


冗談を言っているのだろうかと一瞬考えるが、すぐにそれは打ち消される。土方は冗談を言うような人ではないし、そもそも冗談を言い合うほど親しくもない。何より彼は真剣な眼差しをしていた。


「西洋ではえりくさあ、清でいう仙丹。飲めば筋力、治癒力が増強する。肉体的に人以上の物を手に入れられる」
「……え?」
「髪は白、瞳が赤に変貌する。変若水を飲んで人から進化した者を、羅刹と呼んでいる」


鳩が豆鉄砲食らったような顔をする綾に、土方は淡々と説明していく。
綾は困惑を色濃く浮かべて顔を顰めた。俄かには信じがたい話だ。
何を言っているんだろう、と思うが、あくまで土方は真摯な態度である。
何より平助もこれのことを知っているようで、苦い表情になっていた。
二人して綾を謀るようには到底思えず、だからこそ余計戸惑った。


土方は軽く息を吐く。あまり進んで話したいことではないのか、渋い顔をしていた。


「勿論そんな薬だから代償はある」
「なんですか」
「血に狂う」
「…血に狂う?」


そうだ、と土方はおもむろに頷いた。


「定期的に人の血を飲まなくてはならない。また血を見れば平静ではいられなくなり、血を強く求めるようになる」
「それって、化け物じゃないですか」


急な話に綾は絶句した。代償に血に狂う。血を求める。そんなのは武士どころではなく人間の所業ではない。もし本当ならばただの化け物だ。
信じがたい話に綾は面食らう。
お伽草紙の一節ならば面白いが、現実だと土方は言っているのだ。疑う訳ではない。でも信じられなかった。


土方は綾の反応を尤もだと思っていた。土方自身初めて聞いた時は耳を疑ったものである。
しかし残念ながらこれは正真正銘事実だ。


「今、羅刹を新選組で研究している。それをお前に伝えておきたくて話した」
「…え?どこで」
「前川邸。立ち入り禁止だろうが」


脳内で処理しきれていない綾は、回転が格段鈍くなった頭で思い起こした。八木家の向かいにある前川邸は確かに新選組の屯所になっているのに、平隊士は立ち入りを禁じられている。綾も入ったことがなかった。
まさかその羅刹を研究していたとは。綾は驚いた。何だか話が現実味を帯びてきた。


そう思うと、疑問が湧いてくる。色んなものが渦巻くが、一番聞きたいのは決まっていた。


「どうして新選組で研究しているんですか」


土方の反応を見るに、その羅刹とやらの研究は喜んでしている訳ではないらしい。近藤の性格を考えても、到底そんなのを好き好んで持ち込むとは思えない。
ならばどこからか引き受けてきたということになる。
綾は半ば嫌な予感がしていた。だいたいの想像は出来ているが、信じたくなかった。


土方は眉間に皺を寄せる。羅刹のことよりも、この事実を話さなくてはならないから気が進まなかったのだ。
されど話さずには済ませられないだろう。


「会津藩を通じて、幕府から命令だ」


綾は黙って俯いた。予想していたが傷ついた。一番堪える事実だった。
話に聞いただけでも羅刹とは忌まわしいと思う。もし反対出来るなら反対したい。そういうものだし、新選組でこんなものの存在を喜んでいる人間なんていないだろう。要は体よく押しつけられたという訳だ。
それも、会津藩と幕府に。会津藩の藩主は養父の松平容保、そして幕府の最高位は弟の徳川家茂。


無論直接決定したのが二人でないことは解っている。家茂に至っては新選組にそんな幕命が出ていることすら知らないかも知れない。容保だって綾の存在を公にする訳にはいかないから、簡単に反対出来なかっただろう。そうは思っても胸に突き刺さる。
せめて幕府だけでも関わっていなければ良かったのに。綾は表情を暗くした。もう少し救われたのに。


予想通りの反応に土方は視線を逸らす。残酷な真実を教えなくてはならないのは、やはり胸に迫る。


「羅刹のことを知っているのは試衛館派の幹部だけだ。一切口外するな」


土方がきつい口調で言うと、綾はようやく顔を上げた。当惑が残ってはいるが、幾分かしっかりしていた。


「土方さん、それをどうして私に教えたんですか」


試衛館時代からの幹部にしか教えていない機密だというのなら、何故自分に。綾の疑問は理にかなっていた。


土方は文机の封書に手を伸ばし、彼女に差し出す。
封書の裏面には“会津中将”と走り書かれていた。


「容保様がお前にも教えておくように、だと」
「…養父上が、ですか」


綾の予想通り、容保は新選組に羅刹を押しつけるのは躊躇っていた。だが綾のことは徳川家の最高機密であるし、存在自体家臣でも一部しか知らない。その上新選組に入ったことを知っているのは、容保を除けば染だけである。
反対するにしても擁護のしようがなく、羅刹研究のことは余儀なくされた。


せめてと思い、綾に羅刹のことを話してほしいと文を書いたのである。
危険を知らなければ避けられる物も敵わない。知っているかどうかは大きな違いだ。
綾に覚悟をして我が身を守れるように言うようにとしたためた。
それで話す予定ではなかった綾にも羅刹のことを話した。容保の命令とあらば避けようもないし、綾ならどこかに漏らす心配はない。


土方が一通り説明を終える頃には、綾は冷静になっていた。
決まってしまったものは仕方がない。自分がとやかく言って何とかなるならば良いが、立場上どうしようもないのだ。
姫といっても役立たず。権力すら使えないとは。綾は自嘲した。自分には肩書き以外何もない。


「土方さん」
「なんだ」
「お手間を取らせました」


ありがとうございました、と一礼し綾は部屋を辞した。
土方は何か言いたげではあったが諦めたように首を振り、黙って腕を組んだ。


隣にある自室の襖に手を掛け、部屋の中に入る。
後ろから追いかけてきた平助も続いた。


「雪之丞」


優しく名前を呼ばれ、綾は苦笑した。
平助を心配させるのは本日二度目。全く心労をかけてばかりである。


「大丈夫だから」


綾は笑ってみせた。本当は大丈夫なんかじゃなかった。胸は今も痛い。
されど強がらずにはいられなかった。強がらなければ、立ってなんかいられない。


平助は痛々しそうに綾を見つめていたが、何も尋ねずにただ傍にいてくれた。









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