五月雨 | ナノ









綾はそんなに強くはないが、嗜む程度であれば酒を呑む。
京は旨い酒が多い。
容保は時間が空いた折に、綾に少し酒を呑ませていた。
養父と娘として二人で過ごすことも、そう珍しくはなかったのである。


だがその時よりも屯所で呑む酒の方が綾は好きだった。
もちろん容保とはそこそこ親しくしていたし、容保が用意する酒は名折りの酒蔵のものである。美酒であった。
確かに旨いとは思っていたが、自分から進んで杯を口に運ばなかった。


平助と一緒にいることが多くなって、屯所のどちらかの部屋で呑む機会が出来て綾は驚いた。
こんなにも酒は旨いものだっただろうか。
平助が買ってくる酒は決して良い酒ではない。むしろ安物である。
それなのに美酒に感じるのは、一緒に呑んでいるのが他ならない平助だからだと、綾は気付いていた。


今日も巡察の後に綾の部屋に集まって呑もうということになっていた。
八木家は邸宅としては広いが、屯所と考えれば余裕がある訳ではない。日に日に増える隊士のお陰で、部屋は足りない状況だった。
故に大半が相部屋であり、個室が許されているのは近藤、土方、山南、そして綾の四人だけである。
平助は例外ではなく同室に他人がいるので、自然と一人部屋の綾の部屋で酒を呑むことが多い。
部屋の両隣は近藤と土方だが、それに目を瞑れば好条件である。
そもそも綾は騒ぐような性格ではないし、平助も単独で奇声を上げるような趣味はない。だからいつもは問題なかった。


綾は普段着から、少し楽な着流しに着替えた。腹を締め付ける袴は夜分には辛いものである。
座布団を用意したところで、襖の向こうから足音が聴こえた。
平助だろう、と一瞬思ったが綾は思い直した。足音が三つだったからである。
土方か近藤に用がある者だろうと解釈し、軽く頷いていた。


「雪之丞」


だが気配が襖の向こうで止まり、その上平助の声が聴こえて思わず首を捻った。
平助の他には親しい人間などいない。眉を寄せた。
そして現れた人物に驚愕したのである。


「お、中々いいじゃねぇか」
「意外に狭いんだな」
「一人部屋ならこれくらいで充分だろ」
「そりゃそうだ」


朗らかに笑いながら部屋に入って来たのは、平助の他に原田と永倉である。
訳が解らず怪訝な表情を浮かべる綾を余所に、三人は綾の周辺に腰を下し徳利や漬物が載った皿を置く。
円状に座った後、あれよあれよという間に杯を持たされた。
並々に注がれた酒は杯の中で行燈の橙色に染められ波打っている。
呆然としていた綾だったが、永倉の乾杯の音頭で我に返った。


初巡察の一件以来、原田とは廊下で会えば世間話する程度には親しくなった。距離が縮まっていると思うのは、自惚れではないだろう。
しかし反対に永倉との関係は相変わらずなのだ。


綾の入隊を幹部のほとんどは困惑しているが、中でも拒絶反応が激しかったのは永倉だった。
永倉は普段の軽挙な言動で霞みがちではあるが、実は山南に次ぐ学を持つ男である。
松前藩の江戸定府取次役を父に持つ永倉の実家は、石高百五十石の家柄だ。綾のような突飛な者を除けば、新選組内でも屈指の家柄の出ということになる。
そのため彼は綾を取り巻く事情を正確に把握していたし、彼女を置くことで伴う危険を誰よりも理解していた。


平助から永倉の生まれや背景を聞いていた綾は、永倉と親しくするのは無理だろうと思っていた。寂しいが仕方のないことだ。
そう思って諦めていた、のだが。


「そんじゃ乾杯!」


杯を頭上に高々と掲げて永倉は豪快に笑う。平助と原田も彼に続き、酒を一気に煽った。
綾は流し込むのは無理だから、三分の一程度を嗜んだ。


「おいおい、酒の肴が漬物だけってどういうことなんだ」
「仕方ねぇじゃん。干物があったけど、あれ食うと絶対土方さん怒るしさぁ」
「酒と一緒になんか買ってこいよ!」
「うっかり忘れてたんだって。つーかそういうなら新八っつぁんが用意すれば良かっただろ!」


いつもの調子で二人は騒ぎ始める。
いまいち事情を掴めず困惑を隠せない綾に、心配りが行き届く原田は苦笑した。部屋の主をおいてきぼりに永倉と平助は酒を痛飲している。
原田は綾の頭を軽く撫で、それから二人に目を向けた。


「雪之丞が訳わからねぇって顔してるぞ」


窘められて、ようやく永倉と平助も気付いたらしい。幾分かバツの悪い表情を浮かべて顔を見合わせた。


原田が軽く睨むと、何か言いたげだった永倉が口を開いた。


「俺ら、雪之丞に謝りたくてさ」
「……え?」


聞き間違いだろうか。綾は予想外の言葉に目を見開く。
しかし勘違いではないらしく、永倉は眉根を寄せてこちらを見据えていた。


「誤解していて悪かった!」


そう言うなり永倉は大げさなまでに手を合わせた。状況が全く掴めない綾はどうしたら良いのか解らず、助けを求めて平助を見る。
平助は肩をすくめてみせた。どうやら平助も理由は知らないらしい。


当惑する綾に永倉は言い辛そうな顔をし、乱暴に頭を掻いた。


「お前の覚悟を侮っていたんだよ。姫様の気紛れだと思っていた」
「……はあ」
「約定を書いたんだろ?」


半ば確信籠った口調で永倉は窺う。
道理で。綾は訳を悟り、納得しつつ頷いた。


永倉は初めからあまり良い顔をしていなかったが、土方が役職の発表をした時に殊更驚いた。八番組の伍長に綾が就任するのは反対だった。
綾は会津公の娘であり、将軍家茂公の姉という立場である。万が一死んでしまった時のことを考えると恐ろしい。
新選組の取り潰しは確実、それどころか近藤、土方、平助は死罪になるだろう。他の幹部もただでは済まない。


小姓と伍長は訳が違う。伍長になれば当然、巡察に行ったり斬り合いに参加しなくてはならない。
確かに綾は腕が立つが勝負は時の運。相手方がこちらの何倍もいたり罠にはめられたりすれば、死ぬことも珍しくはない。


しかも隊に属するならば死番を免れることは出来ない。
京は入り組んだ細い路地が多い町であり、また屋内でも狭い廊下や階段が多い。
故に見回りの際に一列にならなくてはならず、先頭の者は袋叩きに遭う可能性が高く致死率は格段上がる。
その先頭が死番である。四人一組で死番を回す。自分の死番の日の朝には死を覚悟しておくのだ。
綾が伍長になれば当然免れられない。例外を認めれば烏合の衆である新選組はすぐに崩壊してしまう。伍長だからこそ尚のこと、手本を示すのが道理だ。


その可能性を主張し、永倉は猛反対をした。されど土方は眉間に皺を寄せ、一枚の紙を黙って差し出した。


永倉が不審に思いながら受け取り覗き見て、腰を抜かすほど驚いた。
それは約定だった。
「綾が死んだとしても新選組は一切の咎を受けない。重罰を科したり待遇を取り上げたりしてはならない。何人たりとも被害を被ってはならない」
誓約の後には、綾だけではなく容保、そしてなんと家茂の名までが連ねてあった。各々の花押までご丁寧に添えてある。


綾は世間知らずではない。一般的な大名家の姫たちは屋敷の奥で籠の鳥然に育つが、特殊な環境で育った上にお忍びで街に繰り出したりと奇想天外なことをしていた綾は、世情もよく理解していた。
自分の入隊が新選組を破滅にやるのは本意ではない。
不慮の事故で死んでしまった時のため、自ら進んで用意し土方に渡していた。


剣客集団が珍しく思った姫の気紛れ。永倉の解釈は大幅に外れていた。
そして約定で覚悟のほどを知ったのである。


知ると同時に今までの態度が思い出される。沖田のようにあからさまにないにしろ、良いとは言い難いものであった。
永倉は猛省し、機会を窺っていたのだ。


本日はちょうど平助が酒を片手に部屋を出るところに出くわし、同じく綾を認め始めていた原田と共に訪ねたのである。


黙って聞いていた綾は、話が終わると同時に息を吐き、微笑んだ。
あの約定がこんなところで役立つとは思わなかった。


「永倉さん、原田さん」
「ん?」
「これからもよろしくお願いします」
「ああ」
「こちらこそ」


三人は顔を見合わせて笑う。その光景に、平助も顔を綻ばせた。






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