五月雨 | ナノ









「そういや、前から思ってたんだけどさ」


葛きりもすっかり腹に収まり茶を啜っていると、平助がふと思い出したように言った。
綾が目線だけで答えると、彼は湯呑みをちゃぶ台の上に置く。


「どうしてお前、剣術やってたの?」
「は?」
「いや、雪之丞の立場で剣をやるって珍しいじゃん」


疑問は尤もである。
女が、しかも姫の身分である者が剣術をするなど聞いたことがない話だ。
奇特な話である。


しかしあまり場を考えずに、思いつきでなされた疑問だったのだろう。
綾は苦笑し、静かに辺りを見渡した。
時刻が時刻だからか店内は閑散としていて、少し離れたところに娘が二人座っているだけである。店の者は奥に引っ込んでいるようだ。
息を吐いて平助に軽く忠告した後、綾は、


「影武者って知ってる?」


と尋ねた。


唐突な言葉に平助は眉を顰めるが、一度だけ頷いた。
影武者。
別名を替え玉とも呼ぶ。
主君本人の代わりとなって表に出たり、主君の命を守るために身代わりになる役だ。
戦国時代は有効な手段であったというし、徳川家康など著名な人物にもいたと云われている。
だが、それがどうしたというのだろうか。


平助が頷くのを確認し、綾は小さく笑った。
今では笑い話の、それを語る。


「私は影武者として育てられたんだよ」
「…え?」


意表を突かれ驚く平助に、綾は言葉を重ねた。


「今はそうでもないけど、幼少の頃は家も、いや、弟とはよく似ていた。弟は生まれながらに家督が約束された立場だったから、当然命の危険も高確率」


淡々と語り始めたのは、あまりに予想外で衝撃的な事実だった。
家茂と綾が生まれた時、既に実父徳川斉順は亡くなっていた。
斉順亡き後紀州藩主は徳川斉彊であったが、また彼にも身体的な不安が多く、事実就任三年目にして逝去している。
更に次期将軍であった徳川家祥、後の第十三代将軍徳川家定は病弱で子供は無理だと言われていた。
だから家茂は生まれながらにして紀州藩主であり、将軍候補だった。


軽い気持ちで尋ねた平助は、思わぬ展開に息を呑んで綾を凝視した。
表情だけでは彼女の感情は窺えないが、傷ついているに違いない。


「…じゃあ、お前は」
「瓜二つでありながら家督どころか存在すら認識されていない私は、絶好の影武者候補だったというわけだね」


綾は当時を思い出しながら、切々と語った。
まだ幼少の頃、家茂と綾が二人とも紀州で生活している頃は、男女の区別が明確に出る前だったこともあり二人はよく似ていた。
染のような側近ならば違えたりしなかったが、少し世話をする程度の者は見間違えた。綾の存在を知らない者なら尚更だ。


久松松平家の者たちは、そうした訳で娘の綾に男装を強い、紀州田宮流を身につけさせた。
家茂が幼少の頃から病弱気味だった上に、綾に剣の才があると知るや否やますます励ませた。
お陰で綾は女でありながら男装が上手く、武芸に長けた姫となったのだ。


気遣うような視線を寄越す平助に、綾は微笑みかける。
どんなことを考えているのか想像がつく。
自分は影武者だと知った時の衝撃は、今でも忘れられない。


だが綾は周囲が思うほど、影武者が嫌だった訳ではなかった。


「影武者で良かったと思うことも沢山あるよ」
「…良かった?」
「私は影武者だったからこそ、いつも弟と一緒にいられたからね」


綾の声音は朗らかだった。


綾のような立場であれば、通常なら母の実家ではなく尼寺に預けられるはずである。しかも家茂には自分に双子の姉がいるなど知らされはしない。
されど影武者であったからこそ、出家することなくそれどころか家茂の傍にいることを許された。
家茂が嫌な奴だったならこんな風には考えなかっただろう。
だが実際、綾は家茂との仲は良好だったし、遠く離れた今でも大切に想っている。


綾が自分の剣術に信頼を置くのは、幼少期の経験があるからだった。
剣術の才覚があったから尼寺に行かずに済んだ。家茂の傍にいられた。
もちろん剣術自体も好いてはいるが、それ以上に経験が基づいているのだ。


平助は話を一通り聞き、そして胸を撫で下ろした。拙いことを聞いてしまったのかと、自分の無神経さに腹立ったところだった。


「お前って、弟のこと好きなんだな」
「うん。私のこの刀、南紀重国というのだけど、これは弟が紀州を立つ前に造ってくれたものなんだ」
「そっか」


嬉しそうな綾に、平助も釣られて笑った。
将軍様なんて遠い存在で、目の前にいる綾がその姉だと聞いても尚、実感は湧かない。
それでも小さな逸話でも何でも耳にすれば、何だか身近に感じられる気がした。


尊王攘夷の思想を持つ平助は、あまり徳川家に良い感情を抱いていない。
特に井伊大老の強引なやり口以来、ますますそれは加速した。
しかし現在井伊大老は桜田門外で暗殺され、幼かった将軍家茂公が成長して政に加わり始めているはずだ。
綾の弟が日の本を牽引しているのなら、それは悪い話ではないのかも知れない。
そう思って、顔を綻ばせた。








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