道場は閑散としており誰一人もいなかった。 近藤は黙って奥に進み、二本の刀を取る。 刃抜きされた打刀である。
「簡単に試合をしてみないか」 「試合…ですか?」 「ああ、そうだ」
朗らかに笑った近藤から刀を受け取る。 ご丁寧に鞘までついている。 真意を察し、綾の胸は温かくなった。 やはり近藤は、近藤である。
紀州田宮流の遣い手である綾は、居合を得意としている。 普通の木刀では居合は出来ない。 故に刃抜きした刀を差し出したのだろう。
正々堂々、真っ向勝負。 近藤の一本気は好ましいものだと、綾は思っていた。
腰の刀を道場の隅に置き、代わりに渡された刃抜き刀を差した。 同じく近藤も準備が整ったようである。 道場の真ん中で、二人は互いに一礼した。
間合いを取って綾は鯉口をきった。 近藤は抜刀して中段に構えている。 半身に構え、刀身を傾斜させた独特の中段構え。 天然理心流の平晴眼である。
常時と違い、近藤からは気迫が感じられる。 殺気にも似たそれは、容赦なく綾の肌を刺す。 何も出来ない姫ではなく、一人の剣術遣いとして近藤は向き合っていた。 その事実が綾には嬉しかった。 綻びかけた口元を正し、綾は目を細めて動きを読む。
やはりというか流石というか、近藤には隙が見当たらない。 居合には力はない。速度こそ命だ。 たった一度きりの好機を逃すまいと、間合いを取りながら目を凝らした。
「やああああああ!」
仕掛けてきたのは近藤だった。 太刀筋を冷静に読み、身体を捻って素早く一手を避けると綾は抜刀した。 唸りながら刀は近藤の喉元目掛けて走る。 繰り出された必殺剣を、今度は近藤が寸でのところで払った。
即座に綾は後ろに飛んで間合いを取り、刀を中段に構える。 居合が失敗したのは予想していても痛い。 紀州田宮流の居合術を極めている綾の手を防ぐのは、早々容易なことではない。 事実ここ数年居合を破られたことはなかったから、綾は一瞬衝撃を受けた。 しかしすぐに口角を上げる。 面白い。そうでなくては。
「やあ!」
綾は近藤の間合いに踏み込み、胴目掛けて突きを繰り出した。 刀は容赦なく空を駆けて行く。 筋を読んだ近藤は、半ば反射的に下段で受け止めた。 激しい音を立て、刀と刀が拮抗する。 力負けしている綾の刀は強く押された。
飛び退いて再び間合いを取るが、構えるなり即座に綾は刀を向ける。 近藤は素早く綾の太刀を避け、振り向きざまに足を叩いた。 痛さで目を丸くした綾の胴を、近藤の刀が突く。 あまりの力に、小柄な綾は飛ばされた。
道場の壁に叩きつけられ、視界が揺らぐ。
「雪之丞!」
焦り声と共に近藤が駆け寄ってきた。 綾が目を開くと、心配そうな顔をした近藤が覗きこんでいる。 試合中の表情ではなく、元のお人よしの顔に戻っている。 綾は大丈夫です、と言いながら微笑んだ。
「参った、負けました。近藤先生はお強い」 「はは、そうか。ありがとう」
豪快に笑いながら、近藤は綾に手を差し出した。 ぐい、と身体を強く引っ張られ持ちあげられる。 ありがとうございますと、綾は表情を緩めた。
沖田の華麗さや斎藤の秀麗さではない。 近藤の太刀は豪気な男らしさを感じた。 自分が慕う御仁は剣豪であると、綾は誇らしく思う。 叩かれた足と胴は痛いが、気持ちは晴れやかだった。 こうした部分から、自分は心底剣が好きなのだと綾は感じていた。
「雪之丞、お前は強いな」 「え?」
褒め口調に綾が驚くと、近藤はそっと目を細めた。
「剣筋に乱れがない。特に居合は見事であった」 「しかし、近藤先生には防がれてしまいました」 「俺も危うかったぞ。肝が冷えたものだ」
近藤の言葉は実感が籠っていた。 それだけに綾は嬉しかった。 誰に褒められるよりも、敬愛している人物に褒められるのは格別に思える。 紅潮した綾を、近藤は優しい眼差しで見つめていた。
「雪之丞」 「はい」 「気は晴れたか?」
気遣わしげな声に、ハッと綾は顔を上げる。 近藤は穏やかな笑みを浮かべていた。
「俺にはこのようなことしか出来んが、あまり根を詰めるんじゃない」 「近藤先生…」 「内に秘めるのはお前の良いところではあるが、欠点でもある。無理は身体に良くないぞ」
厳しいながらも愛情が籠った言葉に、綾の胸は熱くなる。 自分が敬愛する方は、敬愛するに足る人物だ。
人斬りの覚悟は出来ていない。 未だに答えは出ない。 しかし自分が人を斬る時は、きっと近藤のためであろう。 綾は目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭い、心から笑った。
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