勝手場で湯呑みに茶を注ぎ、お盆の上に茶菓子を添える。 巡察の途中で平助が買ってきた落雁だ。 好きな時に食べるよう言われていたから、綾は迷いなくそれも添えた。
庭先の大木の青々とした葉が風に揺れた。 淡く撫でるような風ではあるが、真夏の首筋には優しい。 目を細め、綾は薄く微笑みながら廊下を歩く。 昼間はほとんどの人が出払っている。 まだ結成されて間もない新選組は、人数的に足りていない。 徐々に増えつつあるといっても微量である。 とても人手不足が解消される訳ではなかった。
それなのに、何故自分はこうして小姓などやっているのだろうか。 綾は溜め息をついた。 沖田に反論出来ないのは、彼が言っていることは的を得ているからだ。
剣の腕は申し分ない。 しかし覚悟がない、人を斬る決意が出来ていない。 確かに邪魔者以外の何者でもないだろう。 綾は途方に暮れていた。 どうしようもなく、情けなかった。自分に腹が立った。
近藤の役に立ちたいのは、嘘ではない。 冗談で身分を捨てるような真似をするほど、馬鹿ではないつもりだ。 覚悟ならばした気でいた。 だというのにうろたえているのは、自分が未熟だという証なのだろうか。 綾は目を伏せた。 本当に、情けない話だ。
「雪之丞かね」
近藤の私室の前に立つと、即座に柔らかい声が聴こえていた。 穏やかな身のこなしなので忘れがちだが、彼は仮にも天然理心流の宗家四代目である。 足音で小姓の来訪を知ったのだろう。 綾ははい、と返事をして襖を開けた。
近藤は文机に向かっていた姿勢を正面に向ける。 紙と筆が載っているところを見るに、どこかへの書状をしたためていたらしい。 大抵の文ならば土方や山南といった側近が片付けるが、やはり局長である近藤でなければ通らないものも少なからずある。 近頃ではそうした書状を作成する機会が多い。 新選組が世間にて認められてきた証だ。
「おお、茶か。ちょうど喉が渇いてきたところだった。ありがとう。茶請けは何かね?」 「落雁です。三条大橋の向こうの、鈴野屋のものだそうで」 「そうか、それは楽しみだ」
朗らかに微笑み、近藤は落雁に手を伸ばした。 綾は黙って近藤を見つめていた。
「どうした。お前も甘い物は好きだろう、食べなさい」 「はい、いただきます」
促され綾も落雁を頬張った。 甘く上品な味が広がる。 いつもならば喜んで食べるのだが、今日は進まない。 心に引っかかる物が取れない。
近藤は綾を見て、すぐに顔をしかめた。 甘い物を食べる時は普通の娘のように喜んでいるのに、今日はおかしい。 何が原因か解らないが、悩み事があるらしい。 近藤は静かに茶を啜り、顔を上げた。
「雪之丞、どうした。何か悩みでもあるのか」 「…いえ」 「今日は暗い顔をしている。心に引っかかることがあるのだろう?」
優しく問われ、綾は狼狽する。 正直に事情を話す訳にはいかない。 近藤だけには話せないと思っていた。 信頼していない訳ではない、むしろ一番慕っている。 だからこそ自分の情けない部分など、見せられる訳がなかった。 大見得切って入隊したのに、何一つ役に立たない自分。 それを知られたくなかった。
頑なな綾を見つめていた近藤は、ふと外に目を向ける。 開いたままの窓の向こうから、八木家の子供たちのはしゃぐ声が聴こえてきた。 本日は芹沢一派は出払っているらしい。 朝から眉間に皺を寄せた土方が言っていたのだから、間違いはないはずだ。
綾を芹沢一派に近寄らせないのは、彼女が容保の娘という身分だからだった。 世間的にはもう綾“姫”という方はいない。蓮尚院と戒名した後、尼寺で静かな日々を送っているとされている。
近藤一派は芹沢一派に気を許している訳ではない。むしろ細い糸で繋がっているだけの、危うい仲である。 刀を交えるのは時間の問題だ。 そのために土方と山南は現在策を練っている。 姫育ちの綾に汚い部分を見せるのは忍びない。 容保も綾には何があっても知られぬよう、と言った。
元々信用していない芹沢に徳川の秘密を知られる訳にはいかないと思っていた土方は、ますます綾と芹沢の接触を避けるよう努めた。 お陰で綾は近藤の小姓でありながら、芹沢には簡単に挨拶をしただけである。
そうした事情から、綾は芹沢一派が出入りする時間帯には目立たない場所にいなくてはならなかった。 無理に普通の部屋を造り替えた道場は手狭だし、綾は見かけによらず紀州田宮流の遣い手である。 いつ何時見咎められ、厄介な事態に発展するか解らない。
だから近藤は、行動を制限されている綾のことを不憫に思っていた。 こう自由を奪われては気が滅入るであろう。 姫時代の時分から屋敷を抜け出し、男装して一人町に繰り出すような娘だ。 ここまで言いつけを守って引きこもっているのは、相当辛いことだろうに。
よし、と近藤は膝を叩き立ち上がった。 その唐突な行動に目を丸くした綾に、にっこり微笑んでみせる。
「今から俺と稽古をせんか」 「近藤先生と、ですか」 「ああ。嫌か?」
突然のことに驚いた綾だったが、すぐに瞳が輝いた。 多忙な近藤は滅多に稽古に参加しない。 綾自身、近藤の太刀捌きを見たのはほんの数度であり、手合わせしてもらったことは一度もない。 それだけに、胸は躍った。
「良いのですか?」 「俺から申し出ているのに、悪い訳はなかろう」
豪快に笑う近藤を見て、綾の頬も自然と緩んだ。 こんな時にでも嬉しくなってしまう自分は何とも現金だと思ったが、逸る気持ちは抑えられない。
「喜んで!」
嬉しそうな綾に、近藤も喜ばしいと頷いた。
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