藤堂が連れてきたのは道場の裏手の井戸だった。 今の時刻は誰も利用しないらしく、他に人はいない。 おもむろに水を汲み始めた藤堂を見て、慌てて綾は懐から手拭いを取り出した。 真昼の太陽が厳しい暑さを纏わせ肌を焼く。 風すら殆ど吹かない。 蒸し暑いことで有名な京の夏は、やはり容赦がないと綾は思った。
沖田に叩かれた部分は青く痣になっていた。 特に左足は酷い。水玉模様のようだ。 今は藤堂がいるし部屋に帰ってから見るしかないが、肩も痛むから同様に痣が出来ているだろう。 数度の試合は、久しぶりに人と向かい合った綾には厳しかった。
「あちゃー。痛そう…」
藤堂は顔をしかめた。 女相手にここまでしなくても良いだろうに。 痣は二、三日残る。 あの調子ではきっと稽古の度に上書きされるから、消えることはないだろう。 つくづくえげつない男だと藤堂は思った。
「これから稽古の時は総司の傍は寄らない方がいいぜ」 「あの、藤堂さん」 「ん?」 「沖田さんは俺が嫌いなんですか」
綾はずっと沖田から刺すような視線を感じていた。 厄介者を見るような目で見られることはある程度予想していた。が、沖田はその予想を遥かに上回っていた。 悪意といっても過言ではない。 あからさまな敵意を向けられたことのなかった綾は、思った以上に傷ついた。
「なんであんなに…」 「ああ、総司のことは気にすんな」
藤堂は手のひらを額に当てた。 その表情は呆れと申し訳なさが混じっている。
「アイツのは嫉妬だからさ」 「嫉妬?」 「総司は近藤さんが大好きなんだ」
藤堂は、土方が綾のことを教えた後の沖田を思い出した。 不機嫌極まりなく、自分も随分稽古という名の憂さ晴らしに付き合わされたものだ。 ある意味解りやすい男である。
「雪之丞は小姓で近藤さんの一番身近に配置されたじゃん。近藤姓だしさ」 「はあ…」 「総司は自分が近藤さんの一番でありたいんだ。近藤さんを守るのは自分がいいんだよ」
沖田は九つで試衛館に入門して以来、非凡な才能を見せてきた。 が、天才と謳われても実は陰では努力を重ねた。 全て近藤の為だ。 普段やる気なく気紛れな沖田だが、近藤の役に立つとなれば別人のように変わる。 近藤は沖田にとって全てだ。
その近藤に小姓が出来、なまじ近藤姓を名乗っている。 小姓というのは身の回りの世話と、主君の護衛を任されている職だ。 故に常に付き従うことになる。 組長である沖田は近藤に会わないこともざらだが、小姓身分ならば絶対に一緒だ。 その状況が沖田に面白い訳はなかった。
「総司はさぁ、近藤さんのことになると目の色変わっちまうんだよ。悪く思わないでくれな」 「はい」
近藤はあれだけの人物だから慕う人間は多いだろうと思っていたが、まさかそこまで傾倒した人がいるとは。 驚いたが全て氷解した。 綾は自分の入隊で近藤に迷惑をかけたことは解っている。 恨まれるのも仕方ないことだ。
「沖田さんを始め、皆さんに認めてもらえるよう努力します」 「え?」 「俺のことは良く思われていないでしょう。でも気持ちは本物です。それを解っていただけるように頑張ります」
綾が微笑むと、意表を突かれ驚いた藤堂だったが、彼もまた笑った。 なんだ、いいやつじゃん。 それに姫の気紛れだと思っていたが、違うらしい。 自分の立場も解ってる。世間知らずという訳ではない。 初めて藤堂は綾に好感を持った。
「平助」 「はい?」 「みんな俺のこと平助って呼ぶから、お前もそう呼べよ。敬語もいらないから」 「でも…」 「な?」
戸惑ったが、藤堂の笑顔に綾の胸は温かくなった。 じわり、と何かが広がる。
「うん!」
綾も満面の笑みで頷いた。
続
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